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2009年3月12日木曜日

装丁と新展開

数日前の思い出し日記。

田中さんと研究会。来年度の展開などについて話をする。
これまでの課題がクリアーになる部分もあり、実際の行動に出るということ、調査をしっかりやるということ。で、合意。来年度も楽しくなりそうだ。

注文していた古本が届く。比較的大きめの古本はきっちりと梱包され、それと一緒に古書目録も同封されていた。港や書店の古書目録は装丁が格好良い。他の古書店が比較的おとなしめだが、写真の四方裁ち落としで、表、裏表紙、背表紙とそれぞれ別々の写真をうまくつかっている。今回は大正時代は大阪の女学校の市内見学記念写真帳からのもので、とてもよい。

2009年2月20日金曜日

本が時間を旅する

大学の総合図書館の書庫はお気に入りの場所の一つだ。
天井が低く、ほの暗い。陰気な感じで生きた心地はあまりしないのだが、
それでも圧倒的な数の本が陳列されて、ふつふつと語りかけてくるようなそんな場所。感応センサーで自分のいる書棚の上の照明がつく。自分のいる部屋の離れた奥の棚の方で明かりがついて、頁を繰る音が聞こえる。上の階を人が歩く音がする。自分のそばで自分と違う世界へと出かけている人の気配とその音。そんな場所。

自分はその日は磯村先生の著作物を調べていて、借りてきた一冊を開くと本の頁の間から昔の貸出用紙の複写紙が出てきて、昭和40年11月22日に借りられたことを告げた。昭和40年から平成21年までの間にこの本を手に持った者がいないかどうかはわからないけれど、そこで本を開いた人が書棚に戻し、それを次に自分が手にしたことは間違いない。若い夏目漱石は、この図書館(厳密には当時のものとは違う)にあるすべての本のすべての頁に誰かが読んだ痕跡があることを三四郎を通じて驚嘆していた。

図書館の何か、醍醐味を感じさせる一瞬。

2009年1月28日水曜日

写真日和

なんとも写真写真していた週末。

恵比寿の写真美で「ランドスケープ 柴田敏雄展」を見て、コンパクトデジカメをいよいよ買い替えた。だいぶ悩んだが、これまで使っていたLUMIXで出来たことをパフォーマンスアップするというラインでリコーR10にする。これまでのコンデジで出来ないことをやるには、後日一眼を買う以外にないという判断で、GR、GX系はやめた。まだほとんで触れていないが、感触は上々。値段もかなり安くなっていた。汎用機としては全然充分。
ついで帰りに本屋で木村伊兵衛の本を買う。当時の情報がたくさん詰まった貴重なカットの数々。当時の写真を見ていると、状況記録として撮られているものの中にそれ以上の何かが、逆に淡々と撮られている様に感じる。

前述の写真展。
個人的にはかなり満足。山間の土留めのコンクリート塊の物質量が画面いっぱいに情報として出てくる。麓から山を眺めるとき、山の威容にはいつも圧倒される。それとは微妙にずれてた位置にあるコンクリート塊。山を飲み込むでもなく、コンクリートは斜面に沿って、山に深く刺さって、表面が洗われて居る。山の斜面をどこからか眺めて撮られたカットは、山の斜面をさらに斜めにカット割りされていて、複雑なパースをもたらし、どことなく上下の平衡感覚が失われる。足がぐらつく巨大な画面構成の前に僕は気がつく。僕は今直立して、この写真を見ており、この写真は直立した壁にかけられた写真なのだということに。

2009年1月7日水曜日

物質と痕跡

自分へのお年玉代わりというわけではないけれど、ちょうど手頃な値段で古本屋に河口龍夫作品集が出ていて早速注文。久しぶりにゆっくりと河口作品を堪能。

去年、近作を展示で見て、気持ちが揺さぶられていたのとは違う感動を初期から中期の作品に感じる。ある物質に残された意図的とも意図的でないとも言える夥しい痕跡の数々。例えとして正しいとは思わないが、はじめて原爆ドームに残された人の影を見たときの言葉に出来ない感覚に近い揺さぶり(決して同じ感覚ではない)が、そこにはある。
生々しい痕跡。暖かくもそこに存在していた何かという、根本的なこちらに訴えかける何か。

痕跡。

このキーワードについては考えたいことがたくさんある気がする。作品をつくるということ。宙に消えない何かが生まれるということ。作品(のようなものも含めて)をどのように呼ぶかは別にして必ず生じる痕跡。そのままにしておけば、時間の流れは痕跡を消し去ることもある。それを風化とも呼ぶ。風化すらも、風が時間の流れの中に爪あとを残し、其の前にあったもの別な形に変えるということだ。

果たして僕は痕跡とどう付き合っているかなどと答えも出さずに自問する。

2008年12月16日火曜日

結局ジョアンは来なかった。

先週、待ち望んでいたジョアンジルベルトの来日公演は、中止となった。

これも何かのお告げやもしれぬと思い、ジョアンに思いを馳せつつ、有楽町で電車を降り、この日は数ヶ月ぶりに銀ブラすることに。たまたまなのだが、今年僕の一部の知り合いで盛り上がった南博さんの「白鍵と黒鍵の間に」を読みつつ、銀座に向かう。ジャズをやったことのある者、いわゆるハコで演奏をしたことのある者なら、ここに書かれているエピソードと通底するシンパシーは何かしら得られるのではないだろうか。そして、そんな自分の体験よりもより純度の高い強烈な体験こそがそこに込められていて、熱くなる。雨上がりの冷たい有楽町から、銀座へ向かうとき、そんな20年前の空気を網膜の向こう側で想像しながら歩いた。
今日のそぞろ歩きは、エルメスのギャラリーで、フランス人作家アラン・セシャスの展示、資生堂では、写真家津田直の展示を見る。どちらもかなりよかった。満足。遅めの昼食は、つばめグリル(1丁目の本店は建替え改装中で、五丁目の銀座コア店)へ。ここの付け合せのベイクドポテトはいつも美味い。最近、隈さんによるリノベの終わったティファニーなどをチェック。

2008年5月29日木曜日

目が乾く雨降りの日

最近、使っていはじめている使い捨てコンタクトレンズがどうも調子悪い。
基本的に終電で帰宅と、装用時間が長いせいもあるが、あまり自分には合わないのかもしれない。深夜の話と言えば、夏至が近づいているので、夜がとても短い。終電で家に帰って、だいたい、2時前。晩飯を食べて、ちょこっと作業したり、練習したりとして、4時半過ぎには空がもう明るい。この時期の明け方は、冬に比べて、空が青くて綺麗。

昨日は行き帰りの電車の中で先日古本屋で買った、村上龍・坂本龍一の「モニカ」という本を読む。
坂本の夢日記を素材に、原稿用紙4枚分の短編と写真を村上が提示しているというもの。夢日記自体も面白いのだけど、村上はこの企画でモニカという、男なら誰もがそれぞれの中で、持っている理想の女性(ここではそれをモニカと呼んでいる)の話を書いている。モニカはその憧れゆえ、触れることができず、向こうから質問はされても、こちらの質問には応えない。会話というよりはある種信号のようなものとして、一人の人間の内なる世界としてモニカは表現されている。僕にも、もちろん「モニカ」はいる。たぶん、幼い頃の記憶がめちゃめちゃに断線して、混線して、創り上げられたイメージ上の理想の女性。それがもうすでにどこか夢的な構成物で向こうから質問を浴びせてきている。これがどういうわけか25歳を過ぎたあたりから妙にそれまで以上に僕に語りかけているような気がする。暗示にして不可解すぎて、醒めない夢の中に今日もいるようだ。

2008年5月23日金曜日

しょーじきもう帰ろっかなって思ったでしょ?

今日は一日ルーチンワークだった。

膨大なデータが目の前にあるので、これを整理するだけでしばらく時間が取られてしまいそう。ルーチンは誰かに任せればいいのだけれど、こういうところから拾い出せる発見にまだまだ賭けているところがあるので、結局自分でやることになる。道のりは長いが全然嫌ではないので、まだまだ頑張る。

今日帰りがけに浅野いにおの「おやすみプンプン」2巻を買って電車内で読了。本巻も圧倒的。もうじき次が出るらしい。p182-3の見開きがすごい。思わず震える、三鷹駅。

2008年2月24日日曜日

ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』

ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』読了。

久し振りに、しっかりと小説を読んだ。
ある一人のインド系アメリカ移民の子が一風変わった名前を名づけられる。そんな家族の話。それ以上のことは何も起こらない。にも関わらず、描写のひとつひとつにとても感じ入るものが溢れていて、最後まで惹きつけて止まない。とてもいい小説だった。

時間が多くの人のそれぞれに共感されたり、されなかったりする中で、この小説は時間を積み上げるように淡々と描写している。人物を描写しつづけるということは、一方でこの時間を描写しつづけるということでもある。そして、これがなんとも鮮烈で、胸を焦がして夢中になって頁を繰った。

ふとこれまでの自分のわずかな人生の時間を積み上げられたものとして眺めてみる。何かが起こったようで、実際のところ何かが起きていただろうか?過去を眺めていても、見えるのは淡々とした世界とそれに透かして見える自分の周辺のことだけで、何か気づくにはまだまだ多くの時間を要するのかもしれない。

2008年1月10日木曜日

zasshi!!! zasshi!!!! zashi!!!!

今週のR25のロングインタビューにレディオヘッドのトムヨークが出ているのをみて、ちょっと驚いた。

こんな日本のフリーペーパーの媒体にも応答しているという事実に。手にとって、中を見てみるとネットを通じてインタビューに応じているのがわかる。日本に行く手間(時間や往復の飛行機の燃料が与える環境負荷)を考えて、ネットでやるということになったらしい。トムヨークらしい。
ここで、最近個人的に気になった雑誌をいくつか挙げてみたい。

ひとつめはこのR-25。
フリーペーパーである点と、Yahooのトップページにも似た情報のポータル感。新聞や週刊誌未満の情報量で、かつそれらへ向かうインデックスとしてしっかり機能している気がする。薄さが携帯に便利。都内中心に展開。駅のフリーマガジンラックや、コンビニなどの一部店舗で手に入る。

ふたつめ、ゼクシィ。
最近、身内で読む人がいて(おめでたい)、はじめてその姿をちゃんと確認した。とんでもない厚さ。厚さに加えてその大きさでロンリープラネットを凌ぐボリューム感。結婚という高額商品のカタログともいえる雑誌。専門誌だが、業界誌ではない。一度チェックしたお気に入りには付箋を貼らなくてはとてもじゃないが、もう一度その情報には辿り着けない。あれで、広告収入も考えれば500円なのは高すぎるのではと思うぐらい。

みっつめ、エクス・ポ。
音楽批評家、佐々木敦氏主宰のヘッズが出版した新しい雑誌。16ページフルカラーによる圧縮編集。読みにくさよりも情報が載っているということの価値に重きを置いた雑誌。一般流通しておらず、直接ヘッズに問い合わせるか、取り扱っている数限られた店舗を探すかして購入する。
非常に読みにくいが、読んでみたい情報があるから手に取るという雑誌購買に対する一次欲求に即している気がする。どことなくだが、土つきの野菜を畑に併設された無人の産直売り場で買うような感じ。


よっつめに建築雑誌を挙げようと思うのだけど、もうじき今月号が届くはず。
ついたらまた書きたいと思う。

2007年12月14日金曜日

大谷能生『貧しい音楽』

大谷能生『貧しい音楽』読了。

非常にラフにいうと、
聴くということの意味が複製可能なレコードの登場によって、大きく変わってしまった。音楽が生まれる場所ということの意味、音楽が創られる場所という意味もまた大きく変質したということはこれまでも指摘されてきたようにも思う。しかし、ライブやコンサートといった類が依然その儀式性を保って残っていること以上に、圧倒的にレコードの登場は音楽を聴くという意味を変えてしまった。
音楽批評として論が立脚していることはいうまでもなく、文明批評、芸術・技術史論としてもとても読み応えがある内容だった。
聴くという行為にべったりとついている時間という概念をどのように認識するか、この聴くという観点から演奏するという行為にべったりとついている時間という概念とどのように対峙するか。複製される時間と今をもう一度考えるきっかけでもあったりする。