週末は、
恵比寿、東京都写真美術館で東松照明「TOKYO曼荼羅」と、
六本木、森美術館で「六本木クロッシング2007:未来への脈動」展を梯子する。
どちらもなかなかの展示数あり、恵比寿は一人の作家が多数展示しており、六本木は多数の作家が一点、ないし数点ずつ展示するというもので対照的。長時間かけて、ひとつのストーリーを展示する場合と、一点勝負の表現による展示。全く別のアプローチを続けざまに見ると、展示室の広がりと歩いていくというプロセスで見ていくということに意識的になる。美術館は移動しながら見るというところ、始まりと終わりが設定されているというところにやっぱり大きなエンパワーされたものがあるなぁと思う。
特に森美術館はなかなか広くて、いくつかのポイントがあるとはいえ、毎回展示ルートが変わり、でかい美術館だなぁと思う。それはまるで、前回歩いたときとは別な空間になっているというのは、トルネコの不思議なダンジョンみたいだ(やったことはないのだけど)。特に今回の六本木の展示はまるで、冒険ものの洞窟のようだった。
東松照明の「TOKYO曼荼羅」、案内にも紹介してあるのだけど、「日本を見つめ、」とあり、この「日本」という対象がぐさっときた。同じ日本でなにかを被写体に写真を撮っている写真ならたくさんあるし、僕自身も日本で撮れば、日本の写真が撮れるわけだが、東松の写真に対して使われるこの「日本」を見つめ、「日本」を撮るとは全く意味の違うものだと感じた。それは普段、僕らが日本で起きていることを、世間話の体で語るとき、僕らは日本を語ろうとしているだろうか?日本のことを話題をして、語っているだけでは、東松のした「日本」を見つめて写真を撮ったことと同義の会話は成立していないのだと僕は思う。そういうことを語っている写真群だった。
2007年12月14日金曜日
大谷能生『貧しい音楽』
大谷能生『貧しい音楽』読了。
非常にラフにいうと、
聴くということの意味が複製可能なレコードの登場によって、大きく変わってしまった。音楽が生まれる場所ということの意味、音楽が創られる場所という意味もまた大きく変質したということはこれまでも指摘されてきたようにも思う。しかし、ライブやコンサートといった類が依然その儀式性を保って残っていること以上に、圧倒的にレコードの登場は音楽を聴くという意味を変えてしまった。
音楽批評として論が立脚していることはいうまでもなく、文明批評、芸術・技術史論としてもとても読み応えがある内容だった。
聴くという行為にべったりとついている時間という概念をどのように認識するか、この聴くという観点から演奏するという行為にべったりとついている時間という概念とどのように対峙するか。複製される時間と今をもう一度考えるきっかけでもあったりする。
非常にラフにいうと、
聴くということの意味が複製可能なレコードの登場によって、大きく変わってしまった。音楽が生まれる場所ということの意味、音楽が創られる場所という意味もまた大きく変質したということはこれまでも指摘されてきたようにも思う。しかし、ライブやコンサートといった類が依然その儀式性を保って残っていること以上に、圧倒的にレコードの登場は音楽を聴くという意味を変えてしまった。
音楽批評として論が立脚していることはいうまでもなく、文明批評、芸術・技術史論としてもとても読み応えがある内容だった。
聴くという行為にべったりとついている時間という概念をどのように認識するか、この聴くという観点から演奏するという行為にべったりとついている時間という概念とどのように対峙するか。複製される時間と今をもう一度考えるきっかけでもあったりする。
2007年12月13日木曜日
想像を順にして詰める
昨日、今日はひとに頼まれて、その人の準備しているパーティーでかける音楽のMixCDを作っていた。作っていたと言っても、そんなに本格的にがっちりつないで、Mixしてそれを録音するというよりも、プレイリストを考えて、並べてCDーRに焼くというもの。パーティーのタイムスケジュールに合わせて全部で4枚ほど準備してみたのだが、このMix作業なかなか面白い。昨日の段階ではかなり自分の好きなようにかかったら面白そうな音楽を並べていっていたのだが、どうもパーティーの趣旨に合わないようで、再度今日向こうの意向を聞いて作り直した。
そうすると、どうだろうか、パーティーの様子を想像しながら、こういう音楽がかかったらどうかなとか、頭の中ではパーティーが始るのだ。それに合わせて、音楽を並べていく。未来に向けたDJのような意識にだんだんとなっていく。まるで劇作家が脚本を書くような感じともいえなくもないけど、実はそこで、未来で起こる音楽体験を先に追体験(本来は過去のある体験をその後することだけど時間軸が一段階未来へずれている)するという感覚になる。大げさに言いすぎのようだけど、なかなか興味深い体験だった。
MixCDを作るという行為もなにか自分にとって、自分の音楽の感覚を磨く習作のようで今後も続けてやっていきたいことかもしれないと思った。
そうすると、どうだろうか、パーティーの様子を想像しながら、こういう音楽がかかったらどうかなとか、頭の中ではパーティーが始るのだ。それに合わせて、音楽を並べていく。未来に向けたDJのような意識にだんだんとなっていく。まるで劇作家が脚本を書くような感じともいえなくもないけど、実はそこで、未来で起こる音楽体験を先に追体験(本来は過去のある体験をその後することだけど時間軸が一段階未来へずれている)するという感覚になる。大げさに言いすぎのようだけど、なかなか興味深い体験だった。
MixCDを作るという行為もなにか自分にとって、自分の音楽の感覚を磨く習作のようで今後も続けてやっていきたいことかもしれないと思った。
2007年12月12日水曜日
危険感知
先週、僕が東京にいない間にいつも使っている電車で、若い男の人が電車と接触して亡くなったらしい。彼はどうもイアフォンをして音楽を聴いていたらしいが、それが事故と直接どのように関係あるかわからない。しかし、事故につながるリスクをあげていたことは確かだろう。
僕は普段から電車のホームでの事故は自分もその被害者になるかもしれないと思っている。電車がホームに着いて、自分の目の前を通る度に、「今この瞬間にちょっと立ち位置がぶれたら、死んでしまうかもしれない」とか考えてしまう。人がいないガラガラのホームならまだしも、ラッシュ時の新宿駅などいたら、人ごみで何かの弾みで押されて、落ちないとも限らない。ホームドアの設置が遅々として進まないけれど、早急に設置していくべきだと思う。事故による多大な損失コストよりも設置の方が安いのではないか?
最近、丸の内線にホームドアが設置されたが、ちょうど今、調整工事のため、ホームドアが開けっ放しになっている。これをはじめて見たとき、その時の自分の感覚に自分自身がびっくりした。その普段閉じているはずのドアが開けっ放しになっていることに若干心細く思っているのだ。冷静に考えれば、危険なことなどほとんどないし、去年まではホームドアすらなくて、それが普通だったのにだ。この半年程度、すっかりホームドアに守られてしまっていて、安全ボケしていたようなのだ。そこまで考えると、普段からの自分の危険認識の適当さによく気がつく。
しかし、安全とか危険とかいう感覚は常にそのようなもので、油断せずにどの状況にまで追い込まれると本当に危険でその手前までは程ほどにしておけば安全だということちゃんと認識してさえいればよいのだ。こんな当たり前のことに、開けっ放しになったホームドアは僕を小ばかにしたように開いている。そういえば、インドのムンバイの都心と郊外を結ぶ在来線はドアが開いたまま、電車が走っていたような……
僕は普段から電車のホームでの事故は自分もその被害者になるかもしれないと思っている。電車がホームに着いて、自分の目の前を通る度に、「今この瞬間にちょっと立ち位置がぶれたら、死んでしまうかもしれない」とか考えてしまう。人がいないガラガラのホームならまだしも、ラッシュ時の新宿駅などいたら、人ごみで何かの弾みで押されて、落ちないとも限らない。ホームドアの設置が遅々として進まないけれど、早急に設置していくべきだと思う。事故による多大な損失コストよりも設置の方が安いのではないか?
最近、丸の内線にホームドアが設置されたが、ちょうど今、調整工事のため、ホームドアが開けっ放しになっている。これをはじめて見たとき、その時の自分の感覚に自分自身がびっくりした。その普段閉じているはずのドアが開けっ放しになっていることに若干心細く思っているのだ。冷静に考えれば、危険なことなどほとんどないし、去年まではホームドアすらなくて、それが普通だったのにだ。この半年程度、すっかりホームドアに守られてしまっていて、安全ボケしていたようなのだ。そこまで考えると、普段からの自分の危険認識の適当さによく気がつく。
しかし、安全とか危険とかいう感覚は常にそのようなもので、油断せずにどの状況にまで追い込まれると本当に危険でその手前までは程ほどにしておけば安全だということちゃんと認識してさえいればよいのだ。こんな当たり前のことに、開けっ放しになったホームドアは僕を小ばかにしたように開いている。そういえば、インドのムンバイの都心と郊外を結ぶ在来線はドアが開いたまま、電車が走っていたような……
2007年12月11日火曜日
たんけんぼくのまち
今日、ある景観ガイドブック編集作業の打ち合わせ中、中に折り込むガイドマップをどうするかという話の中で、一例として僕は子供の頃の記憶としてNHKの教育番組であった「たんけんぼくのまち」の話をしたのだけど、一回りも違わない下の世代の後輩たちには全く通じなかった。
いつごろ放送されていたものだろうと思ったら、84年~91年までの3年生の社会科番組とのこと。確かにこれだと彼らは見てないかもしれないなぁと。
wiki 「たんけんぼくのまち」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%82%93%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%BC%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%A1
改めて思い返してみると、この番組、まちの中を探検して、地図を書いて表現するというスタイル。今の僕の原点のような気がする。小学校の卒業文集の編集をしたりもしていた当時、巻末にみんなのいたこのまちっていう感じで、オリジナルの地図をつくって、そこにみんなの思い出をちりばめた絵地図をつくったりもしたのを思い出した。そこには、いつもの公園でどんな遊びをしたとか、ここが近道だとか、秘密基地だった工事建築資材置き場や裏山だとか、暴走族が集まる通りとか、本当に自由にいろいろなものをマッピングした地図だった。
いつごろ放送されていたものだろうと思ったら、84年~91年までの3年生の社会科番組とのこと。確かにこれだと彼らは見てないかもしれないなぁと。
wiki 「たんけんぼくのまち」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%82%93%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%BC%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%A1
改めて思い返してみると、この番組、まちの中を探検して、地図を書いて表現するというスタイル。今の僕の原点のような気がする。小学校の卒業文集の編集をしたりもしていた当時、巻末にみんなのいたこのまちっていう感じで、オリジナルの地図をつくって、そこにみんなの思い出をちりばめた絵地図をつくったりもしたのを思い出した。そこには、いつもの公園でどんな遊びをしたとか、ここが近道だとか、秘密基地だった工事建築資材置き場や裏山だとか、暴走族が集まる通りとか、本当に自由にいろいろなものをマッピングした地図だった。
2007年12月9日日曜日
2007年12月1日土曜日
何を選ぶかということ
先日昼時に、近くのマクドナルドの前を通った。
そこは先日の食品偽装問題になったマックだということを後輩から聞いていて、そして、そこに僕は以前2回ほど入ったことがある。食品偽装のニュースが明るみに出て、会社役員が謝罪して、まだ、2日程しか経っていない昼下がり。そこのマックは大盛況だった。僕はその光景を見て少しびっくりした。外の歩道と直接繋がったマックのカウンターのレジ横にはB1サイズほどのパネルで謝罪とお知らせというものが掲げられているにも関わらず、いつもと変わらぬ長蛇の列。確かに、日本の食品衛生の管理基準からしても、普段の自分たちの家での食事の時の賞味期限を守る、守らないという話からしても、今回の偽装にそれほど深刻な問題があるとは思えない。現に誰も食中毒で訴えたりしていないし、人が病院に行ったり、ましてや死んだりなどしていない。
しかし、一企業、それも全国展開している大企業が、あるルールを違反したときに、こうも無反応に問題を起した店舗に列ができるものだろうか?5キロ、10キロ、速度違反をしたバスがあるからといって、しばらくそのバスに乗らないなんて、ことは僕らはしないと思う。
しかし、それと今回の一連の偽装問題は一緒だろうか?
僕はそう簡単に一緒だとは今は思えない。なぜなら、バスを乗らなくてはならない事情とマックを食べなくてはならない事情は同じとは思えないからだ。バスは場合によっては選択肢が少なくて、しょうがなく乗ったり、それに頼った生活がありえるけれど、マックの1回の食事は今の世の中、必ずしもそこでなくてはいけないなんてことはない。豊富な選択肢の中から選ばれた(選ばれるべき)マックなのだと思う。だからこそ、選ばれる側は、選ばれるように努力するのだ。今回の出来事は僕にとって、実際さほどでかい問題とは感じていないけれど、多少なりとも失望する出来事であった。しばらくは積極的にマックには行かないという選択をとるかもしれない。 でも、100円の手軽さに惹かれて、駅前でちょっとした時間潰しにコーヒーを飲みに行ってしまうかもしれない。
兎に角、僕は選べる自由のあるものにはもっと敏感に積極的に選びとっていたいのだ。それは例え小さな些細なものであっても、自分にとって納得のいく幸せなものをその中から少しでも選び取っていたいから。
そこは先日の食品偽装問題になったマックだということを後輩から聞いていて、そして、そこに僕は以前2回ほど入ったことがある。食品偽装のニュースが明るみに出て、会社役員が謝罪して、まだ、2日程しか経っていない昼下がり。そこのマックは大盛況だった。僕はその光景を見て少しびっくりした。外の歩道と直接繋がったマックのカウンターのレジ横にはB1サイズほどのパネルで謝罪とお知らせというものが掲げられているにも関わらず、いつもと変わらぬ長蛇の列。確かに、日本の食品衛生の管理基準からしても、普段の自分たちの家での食事の時の賞味期限を守る、守らないという話からしても、今回の偽装にそれほど深刻な問題があるとは思えない。現に誰も食中毒で訴えたりしていないし、人が病院に行ったり、ましてや死んだりなどしていない。
しかし、一企業、それも全国展開している大企業が、あるルールを違反したときに、こうも無反応に問題を起した店舗に列ができるものだろうか?5キロ、10キロ、速度違反をしたバスがあるからといって、しばらくそのバスに乗らないなんて、ことは僕らはしないと思う。
しかし、それと今回の一連の偽装問題は一緒だろうか?
僕はそう簡単に一緒だとは今は思えない。なぜなら、バスを乗らなくてはならない事情とマックを食べなくてはならない事情は同じとは思えないからだ。バスは場合によっては選択肢が少なくて、しょうがなく乗ったり、それに頼った生活がありえるけれど、マックの1回の食事は今の世の中、必ずしもそこでなくてはいけないなんてことはない。豊富な選択肢の中から選ばれた(選ばれるべき)マックなのだと思う。だからこそ、選ばれる側は、選ばれるように努力するのだ。今回の出来事は僕にとって、実際さほどでかい問題とは感じていないけれど、多少なりとも失望する出来事であった。しばらくは積極的にマックには行かないという選択をとるかもしれない。 でも、100円の手軽さに惹かれて、駅前でちょっとした時間潰しにコーヒーを飲みに行ってしまうかもしれない。
兎に角、僕は選べる自由のあるものにはもっと敏感に積極的に選びとっていたいのだ。それは例え小さな些細なものであっても、自分にとって納得のいく幸せなものをその中から少しでも選び取っていたいから。
登録:
投稿 (Atom)