週末、久しぶりに、英気を養うが如く、食欲や飲み欲を貪る。
がっつりに牛肉、豚肉、鶏肉などを七輪で焼き、麦酒とともに食らう。麦酒がドライブしつつ、しゃべりもヒートアップしてもう一軒行こうということになり、馴染みなじゅざぶへ行く。ここのお店はつくばのフィンラガンに最近行けない身としては、ここでモルトのお勉強させてもらっている大事なところなのだ。(ここで出してくれる輸入ビールもいつもうまい)
そこで、来週、お店がアニバーサリーでお祝いイベントがあるのだけど、今年はそれに出れなそうなので、前祝いというか、そんなこともあって行ってみると、なんと!ご好意で、そのイベントのときに開けようと思っていたボトルを中心に、イベント時の料金システム(4千円で飲み放題)で飲ませていただいた。翌日オフだったのもあり、大喜びで大いに飲む。この提案をしてくれたのは、もう2杯目が終わるかなぐらいだったので、飲み代だけで、4千円にまで届かないにしろ、3杯目の頼み方によっては、届いてしてまうようなところ。なんとも、大感激な泣ける話。
飲んだやつをざーっと書いていくと、
カリラの13年、あまり出回ってないレアボトリングのアードベグの原酒7年、ハイランドパークを13年と25年とレアボトリング(名前失念)の飲み比べ、ラフロイグの若いやつ、ラガブーリンの変名ボトリングのやつ、他多数。頂く。
元取るどころの騒ぎではない。カウンターの前に酒瓶がどんどん並ぶ。もう飲みながらにやけてしまい、軽くいつ死んでもいい状態だった(また、ぜひこれをやって、何度でも「あぁ死にたい」って思いたい。)一緒に出してもらったドライフルーツもウォッシュのチーズも超イカしていました。最高。
かなりいい感じでドライブしきって酩酊の状態で別なところで飲んでいるソウルメートたちから連絡あったが、もう動けず。家に着いたら、久しぶりに3分ともたず、床に転がっていた。
2008年6月30日月曜日
2008年6月24日火曜日
似た部分から探す
UTMマレーシア工科大学と研究交流会。
当大学に来られて、午前中を使ってお互いの研究内容のプレゼンやディスカッションをする。僕もここ最近のプロジェクトとして、新宿の話をする。都内のプロジェクト、リサーチの仕方や狙い、行政の計画立案の関わり等々について話をする。前々日に急遽自分がやることになり、一晩準備する。今までの素材を英語に翻訳していくだけなのだが、なかなか一苦労。その代わりに頭の中が整理できたことも多かった。
僕はプレゼンの番が最後だったので、なかなか時間がなくて、ディスカッションを充分にできなかったのだけど、会が終わってすぐにUTMの学生の人から2,3人に質問などされて、個別に意見交換ができてよかった。
例えば、建築確認申請前の事前協議について質問があった。お互いの国の制度の細かいところまで理解が及んでいないので、建築指導のような概念をどのように運用しているか、自国と似た概念制度があるか、そこを確認するということ、そこがもっとも実践的な中身として、イシューになるんだなと実感。
当大学に来られて、午前中を使ってお互いの研究内容のプレゼンやディスカッションをする。僕もここ最近のプロジェクトとして、新宿の話をする。都内のプロジェクト、リサーチの仕方や狙い、行政の計画立案の関わり等々について話をする。前々日に急遽自分がやることになり、一晩準備する。今までの素材を英語に翻訳していくだけなのだが、なかなか一苦労。その代わりに頭の中が整理できたことも多かった。
僕はプレゼンの番が最後だったので、なかなか時間がなくて、ディスカッションを充分にできなかったのだけど、会が終わってすぐにUTMの学生の人から2,3人に質問などされて、個別に意見交換ができてよかった。
例えば、建築確認申請前の事前協議について質問があった。お互いの国の制度の細かいところまで理解が及んでいないので、建築指導のような概念をどのように運用しているか、自国と似た概念制度があるか、そこを確認するということ、そこがもっとも実践的な中身として、イシューになるんだなと実感。
2008年6月19日木曜日
2008年6月18日水曜日
目に見えないものと見えるもの
昨年の新宿での作業成果を持って、地元のまちづくりNPOの勉強会で話をする。
大枠のフレームから話しすぎたせいか、エモーション的に伝わらなかったかな?と思うところもあったが、概ね、良好な反応。次の一手をここからどうしていくか、さらに熟考と決断して行なっていく勇気が必要。
意識の高い人たちとの対話、議論はひとつひとつが勉強になる。
景観の議論とまちづくりの議論の接点をどうもたせるかが一番の課題。
つまりは表題、目に見えないものと見えるものの接点だ。
大枠のフレームから話しすぎたせいか、エモーション的に伝わらなかったかな?と思うところもあったが、概ね、良好な反応。次の一手をここからどうしていくか、さらに熟考と決断して行なっていく勇気が必要。
意識の高い人たちとの対話、議論はひとつひとつが勉強になる。
景観の議論とまちづくりの議論の接点をどうもたせるかが一番の課題。
つまりは表題、目に見えないものと見えるものの接点だ。
2008年6月16日月曜日
一人乗りの乗り物に乗って
シャネルのモバイルアートを体験しに代々木公園へ行く。
ザハ・ハディドが設計し、世界を巡回している移動型パビリオンでの展示。着くとなかなかがっしりとした数のスタッフに案内されて中へ入る。ここでも数人のスタッフの人に順々に対応してもらい、ヘッドフォンとプレイヤーを首にかけてもらい説明を受ける。鑑賞者は、一列に椅子に座って並び、一人ずつ、音楽とともに聞こえた指示に従って、館内を巡り、数々の作品を見て回る。ヘッドフォンをつけて、一人ずつ見て回る、それはまるでサファリパークのような感覚だった。
指示通りに動くというのは、鑑賞者がそのタイムラインに従い、ルール的にはそこで不可逆な観賞を強いられる。もうちょっと見たいなとか、もう次に行きたいなというのは通用しない。一人乗りのゴンドラにでも乗せられている感じ。この一人乗りというところがポイント。順々にスタッフに準備してもらうので、絶対同じ時間でプレイスタートされない。そのため、ルールを乱して観賞する人がいなければ、自分よりも前の人はずっと一つ前の交わらない時間の中にいて、自分よりも後ろの人が自分よりも先に次の作品を鑑賞することもない。だから、前の人を見ていると、そろそろ自分もこの作品を鑑賞する時間が終わるとかわかる。そして、耳に入る指示に従って、自分も次の作品に移動を始める。この観賞タイミングの予測可能性は、ある種、空間として隣人の鑑賞者と同時性や、空間の一体感を得るかと思いきや、全くの孤独感を僕に与えた。どこまでも言っても一人で作品と対峙している感じ。個人的に耳から僕の観賞態度はmp3プレイヤーに支配され、同じような動きをしている周囲の人間と自分が同じ場面(フェイズ)にいるなんて全く思えない。同じ時間、同じ空間に居合わせた他者は自分と同じ作品を鑑賞していても、常に視点も文脈も違う中で作品を見ていることはない。美術館というか作品に向かう各人の態度や感情として、当たり前なのだけど、僕はm3プレイヤーに支配され、モバイルアート内で他者と繋がれない孤独感を味わい、作品と向き合った。
こう思わせたのは、束芋の虫をモチーフにした映像作品だった。ちょうどこの映像作品を見始めたとき、虫の羽根、蝶や蜻蛉の羽根がひらひら舞い落ちるシーンだった。それが、だんだんと虫たちのシルエットと動きが見えて、また羽根が落ち、虫が消え、というような流れを持って、見た。それはたまたまそういうタイミングだった。個人の時間に対して、作品のループし続けて、回転してながら静止している時間と、僕はそのように出会い、映像作品にそうした文脈を見たのだ。そういうタイミングだったのだ。しかし、数分後にやってきた次の人は決して自分と同じ文脈では見れない。羽根がひらひら舞い落ちるシーンは終わっていて、次のシーンだったからだ。
そして、僕は後ろの人がどのシーンでその場所を離れるかわからない。僕は必ず先に、その場を離れるからだ。このとき、「あぁ、僕は一人なのだ。一人でここに立っている。」と思った。
ザハ・ハディドが設計し、世界を巡回している移動型パビリオンでの展示。着くとなかなかがっしりとした数のスタッフに案内されて中へ入る。ここでも数人のスタッフの人に順々に対応してもらい、ヘッドフォンとプレイヤーを首にかけてもらい説明を受ける。鑑賞者は、一列に椅子に座って並び、一人ずつ、音楽とともに聞こえた指示に従って、館内を巡り、数々の作品を見て回る。ヘッドフォンをつけて、一人ずつ見て回る、それはまるでサファリパークのような感覚だった。
指示通りに動くというのは、鑑賞者がそのタイムラインに従い、ルール的にはそこで不可逆な観賞を強いられる。もうちょっと見たいなとか、もう次に行きたいなというのは通用しない。一人乗りのゴンドラにでも乗せられている感じ。この一人乗りというところがポイント。順々にスタッフに準備してもらうので、絶対同じ時間でプレイスタートされない。そのため、ルールを乱して観賞する人がいなければ、自分よりも前の人はずっと一つ前の交わらない時間の中にいて、自分よりも後ろの人が自分よりも先に次の作品を鑑賞することもない。だから、前の人を見ていると、そろそろ自分もこの作品を鑑賞する時間が終わるとかわかる。そして、耳に入る指示に従って、自分も次の作品に移動を始める。この観賞タイミングの予測可能性は、ある種、空間として隣人の鑑賞者と同時性や、空間の一体感を得るかと思いきや、全くの孤独感を僕に与えた。どこまでも言っても一人で作品と対峙している感じ。個人的に耳から僕の観賞態度はmp3プレイヤーに支配され、同じような動きをしている周囲の人間と自分が同じ場面(フェイズ)にいるなんて全く思えない。同じ時間、同じ空間に居合わせた他者は自分と同じ作品を鑑賞していても、常に視点も文脈も違う中で作品を見ていることはない。美術館というか作品に向かう各人の態度や感情として、当たり前なのだけど、僕はm3プレイヤーに支配され、モバイルアート内で他者と繋がれない孤独感を味わい、作品と向き合った。
こう思わせたのは、束芋の虫をモチーフにした映像作品だった。ちょうどこの映像作品を見始めたとき、虫の羽根、蝶や蜻蛉の羽根がひらひら舞い落ちるシーンだった。それが、だんだんと虫たちのシルエットと動きが見えて、また羽根が落ち、虫が消え、というような流れを持って、見た。それはたまたまそういうタイミングだった。個人の時間に対して、作品のループし続けて、回転してながら静止している時間と、僕はそのように出会い、映像作品にそうした文脈を見たのだ。そういうタイミングだったのだ。しかし、数分後にやってきた次の人は決して自分と同じ文脈では見れない。羽根がひらひら舞い落ちるシーンは終わっていて、次のシーンだったからだ。
そして、僕は後ろの人がどのシーンでその場所を離れるかわからない。僕は必ず先に、その場を離れるからだ。このとき、「あぁ、僕は一人なのだ。一人でここに立っている。」と思った。
2008年6月13日金曜日
レクチャーをした
学部生の演習で自分の研究に関する分野で簡単なレクチャーをする機会を頂いた。
ごくごく少数の演習だったのだけど、普段の研究から戦災復興にまつわる都市計画史の概論、そこで扱われているトピックの視点の提示などをする。15分程度の説明ということだったが、結局30分以上しゃべってしまっていた。
まだまだ人前で自分のしたことを発表するということではなく、教えるという在り方をあまり経験していないので戸惑いもあった。前日からこれまでの自分のメモを整理して、資料を作成して、当日話す流れを確認。
研究発表のとき以上に自分のストーリーをそこで再生するよりも、その場の反応を見ながら、状況見つつ話を展開させるようにする。といってもあまりちゃんとはできなかったかな。
こういうレクチャーの経験は、言霊的というか、繰り返し繰り返し同じ話をしていくことで、自分が鍛え上げられていくという感じがした。話終わった後で自分の頭が軽くすっきりした感じを味わう。さらに話終わって、質問が出たところで自分的には新たな発見もたくさんあり、受講者以上にこちらにとってゲインがあったんじゃないかという感想。謝々。
貴重な体験でした。
ごくごく少数の演習だったのだけど、普段の研究から戦災復興にまつわる都市計画史の概論、そこで扱われているトピックの視点の提示などをする。15分程度の説明ということだったが、結局30分以上しゃべってしまっていた。
まだまだ人前で自分のしたことを発表するということではなく、教えるという在り方をあまり経験していないので戸惑いもあった。前日からこれまでの自分のメモを整理して、資料を作成して、当日話す流れを確認。
研究発表のとき以上に自分のストーリーをそこで再生するよりも、その場の反応を見ながら、状況見つつ話を展開させるようにする。といってもあまりちゃんとはできなかったかな。
こういうレクチャーの経験は、言霊的というか、繰り返し繰り返し同じ話をしていくことで、自分が鍛え上げられていくという感じがした。話終わった後で自分の頭が軽くすっきりした感じを味わう。さらに話終わって、質問が出たところで自分的には新たな発見もたくさんあり、受講者以上にこちらにとってゲインがあったんじゃないかという感想。謝々。
貴重な体験でした。
2008年6月11日水曜日
人か、化け物か、
先週末、会期の終わってしまう国宝薬師寺展を見に、東京国立博物館へ。
いろいろと前もって情報をチェックしてあったので、なかなか興味深く見ることができた。
特に情熱大陸で、専属の展示デザイナーの回なんかもあって、現金なもので、照明とかいつも以上にしっかり見てしまう。
そこで、気がついたことは、仏像の表情が見る角度によって、全然変化するということ。なんとなくわかっていたようなことだけど、改めて、これはすごいなと思った。
今回の展示の目玉、日光・月光両菩薩像は普段は見れない背面まで、360度見ることができ、菩薩像の正面は高台になっていて、下から見上げの視点だけでなく真正面から対峙することもできた。この表情が変化するというのはなぜ、起きるかというと顔にできる陰影を鑑賞者がそれぞれの角度から読み取って意味づけするから起きるんだと思った。わかりやすい例で言うと、普段からうつむくという顔、ないし頭部の角度に、元気がなさそうという意味づけをしてみているわけだけど、これは陰影と非常大きな関係にあるんだと思う。下を向いて顔の半分に影がほんのりとかかることで、人はああうつむいている(うつむいている表情になっている)なと判断するのかもしれない。
あと、驚いたのは、両菩薩の説明であるように、その美術的技術の高さ、写実的な表現、肉質感などが謳われているけれど、その足のなんとものっぺりとしていて、ごつい、像とのバランスで見ても異様にでかいように感じた。仏の足は仏教教義の中でも意味のある部位。
もちろんあれだけ巨大鋳造の立像なので、立たせるバランスは大事なので、台座と身体を支える足が若干ごつくなるものかもしれない。けれど、人間離れしているあの足!!
なんとも、あの足を見たときに、身体上部の瑞々しさに魅了されていた状態から、菩薩様は人間じゃないんだという戦慄を覚えた。しばらくは、足に注目していろんな立像を見て回りたくなった。ダビデ像の足とかどうなっていただろうか。
いろいろと前もって情報をチェックしてあったので、なかなか興味深く見ることができた。
特に情熱大陸で、専属の展示デザイナーの回なんかもあって、現金なもので、照明とかいつも以上にしっかり見てしまう。
そこで、気がついたことは、仏像の表情が見る角度によって、全然変化するということ。なんとなくわかっていたようなことだけど、改めて、これはすごいなと思った。
今回の展示の目玉、日光・月光両菩薩像は普段は見れない背面まで、360度見ることができ、菩薩像の正面は高台になっていて、下から見上げの視点だけでなく真正面から対峙することもできた。この表情が変化するというのはなぜ、起きるかというと顔にできる陰影を鑑賞者がそれぞれの角度から読み取って意味づけするから起きるんだと思った。わかりやすい例で言うと、普段からうつむくという顔、ないし頭部の角度に、元気がなさそうという意味づけをしてみているわけだけど、これは陰影と非常大きな関係にあるんだと思う。下を向いて顔の半分に影がほんのりとかかることで、人はああうつむいている(うつむいている表情になっている)なと判断するのかもしれない。
あと、驚いたのは、両菩薩の説明であるように、その美術的技術の高さ、写実的な表現、肉質感などが謳われているけれど、その足のなんとものっぺりとしていて、ごつい、像とのバランスで見ても異様にでかいように感じた。仏の足は仏教教義の中でも意味のある部位。
もちろんあれだけ巨大鋳造の立像なので、立たせるバランスは大事なので、台座と身体を支える足が若干ごつくなるものかもしれない。けれど、人間離れしているあの足!!
なんとも、あの足を見たときに、身体上部の瑞々しさに魅了されていた状態から、菩薩様は人間じゃないんだという戦慄を覚えた。しばらくは、足に注目していろんな立像を見て回りたくなった。ダビデ像の足とかどうなっていただろうか。
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