2008年5月21日水曜日

「思い出」のやりとり

今日は、今年度に始まった自主プロジェクトの打ち合わせ。景観を体験として共有するというようなことがテーマ。

3人でアイディアを出しながら議論をしていく感じなので、モノが生まれてくるような面白さがある。久し振りにいい議論ができていると思う。

今日の議論の断片をいくつか。
・「思い出」は相続できない
・長期的時間の中に「思い出」が生まれ、短期的時間の中に「経験・体験」が生じる
・ジェスチャーとしての空間認知のあり方
・「思い出」と「歴史」の関係

体験というキーワードから始まり、時間の中でそれがどう行われるか、考えているときに僕が普段音楽やっている中で考えている「時間をどう捉えるか」というテーマに一気に近接していき、個人的には盛り上がった。

以前、ドラムソロやフリーインプロの方法論として、ごくごく個人的であるという自由さについて考えていたことがあって、その時のテーマも「思い出」だった。個人の領域としての「思い出」の再現とコラージュによって、たしか楽曲の形を作ろうとしていたのだと思う。それが実際どれくらい成功していたかはもう思い出したくもないけれど。フリーインプロみたいなことをやりはじめたときに、頭の中がちがちにして、自由であるということと、自分にしかできないことみたいな牙城に篭りきるために、「思い出」から始めようという、もう前衛なんだか、保守なんだか。頭の硬いをことを考えていたこともあったなぁと。
思う。ただ、今でも思うことは、個人の不可侵な領域としての「思い出」と個人の「ボキャブラリー」というのはすごく近接していて、とても大事な問題だろうということだ。それありきで、会話が成立しているわけで、これから脱却することはできない。場面に応じて、「思い出」の再統合をして、表出させているのだろうと思う。ひらめきだけで、100m走り切れることってそうそうないことだろう。
で、もう一方で実は忘れるっていうこともすごい大事だと思っているが、それはまた今度(「思い出」の話ももっとちゃんと整理して書きたい)。

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