2008年6月30日月曜日

幸せな感じでぶっ倒れる

週末、久しぶりに、英気を養うが如く、食欲や飲み欲を貪る。

がっつりに牛肉、豚肉、鶏肉などを七輪で焼き、麦酒とともに食らう。麦酒がドライブしつつ、しゃべりもヒートアップしてもう一軒行こうということになり、馴染みなじゅざぶへ行く。ここのお店はつくばのフィンラガンに最近行けない身としては、ここでモルトのお勉強させてもらっている大事なところなのだ。(ここで出してくれる輸入ビールもいつもうまい)
そこで、来週、お店がアニバーサリーでお祝いイベントがあるのだけど、今年はそれに出れなそうなので、前祝いというか、そんなこともあって行ってみると、なんと!ご好意で、そのイベントのときに開けようと思っていたボトルを中心に、イベント時の料金システム(4千円で飲み放題)で飲ませていただいた。翌日オフだったのもあり、大喜びで大いに飲む。この提案をしてくれたのは、もう2杯目が終わるかなぐらいだったので、飲み代だけで、4千円にまで届かないにしろ、3杯目の頼み方によっては、届いてしてまうようなところ。なんとも、大感激な泣ける話。
飲んだやつをざーっと書いていくと、
カリラの13年、あまり出回ってないレアボトリングのアードベグの原酒7年、ハイランドパークを13年と25年とレアボトリング(名前失念)の飲み比べ、ラフロイグの若いやつ、ラガブーリンの変名ボトリングのやつ、他多数。頂く。
元取るどころの騒ぎではない。カウンターの前に酒瓶がどんどん並ぶ。もう飲みながらにやけてしまい、軽くいつ死んでもいい状態だった(また、ぜひこれをやって、何度でも「あぁ死にたい」って思いたい。)一緒に出してもらったドライフルーツもウォッシュのチーズも超イカしていました。最高。
かなりいい感じでドライブしきって酩酊の状態で別なところで飲んでいるソウルメートたちから連絡あったが、もう動けず。家に着いたら、久しぶりに3分ともたず、床に転がっていた。

2008年6月24日火曜日

似た部分から探す

UTMマレーシア工科大学と研究交流会。

当大学に来られて、午前中を使ってお互いの研究内容のプレゼンやディスカッションをする。僕もここ最近のプロジェクトとして、新宿の話をする。都内のプロジェクト、リサーチの仕方や狙い、行政の計画立案の関わり等々について話をする。前々日に急遽自分がやることになり、一晩準備する。今までの素材を英語に翻訳していくだけなのだが、なかなか一苦労。その代わりに頭の中が整理できたことも多かった。
僕はプレゼンの番が最後だったので、なかなか時間がなくて、ディスカッションを充分にできなかったのだけど、会が終わってすぐにUTMの学生の人から2,3人に質問などされて、個別に意見交換ができてよかった。
例えば、建築確認申請前の事前協議について質問があった。お互いの国の制度の細かいところまで理解が及んでいないので、建築指導のような概念をどのように運用しているか、自国と似た概念制度があるか、そこを確認するということ、そこがもっとも実践的な中身として、イシューになるんだなと実感。

2008年6月19日木曜日

そこに生きる

神田で講演会を聞きに行く。

講演者はずっと以前から会いたかった若手研究者の方。予想通りとても面白かった。自分の興味、知りたいことをどこまでも突き抜けていくというエネルギーを感じた。人柄は落ち着いているのだけど、言葉のパワーというか、知識自体に何かエネルギーを感じるというか。非常に刺激になった。
被災者がそこに生きながら、復興し続けるという言葉が印象に残った。

終わって、昨日の勉強会出席メンバーで餃子とビールで軽く打ち上げる。

2008年6月18日水曜日

目に見えないものと見えるもの

昨年の新宿での作業成果を持って、地元のまちづくりNPOの勉強会で話をする。

大枠のフレームから話しすぎたせいか、エモーション的に伝わらなかったかな?と思うところもあったが、概ね、良好な反応。次の一手をここからどうしていくか、さらに熟考と決断して行なっていく勇気が必要。
意識の高い人たちとの対話、議論はひとつひとつが勉強になる。
景観の議論とまちづくりの議論の接点をどうもたせるかが一番の課題。
つまりは表題、目に見えないものと見えるものの接点だ。

2008年6月16日月曜日

一人乗りの乗り物に乗って

シャネルのモバイルアートを体験しに代々木公園へ行く。

ザハ・ハディドが設計し、世界を巡回している移動型パビリオンでの展示。着くとなかなかがっしりとした数のスタッフに案内されて中へ入る。ここでも数人のスタッフの人に順々に対応してもらい、ヘッドフォンとプレイヤーを首にかけてもらい説明を受ける。鑑賞者は、一列に椅子に座って並び、一人ずつ、音楽とともに聞こえた指示に従って、館内を巡り、数々の作品を見て回る。ヘッドフォンをつけて、一人ずつ見て回る、それはまるでサファリパークのような感覚だった。
指示通りに動くというのは、鑑賞者がそのタイムラインに従い、ルール的にはそこで不可逆な観賞を強いられる。もうちょっと見たいなとか、もう次に行きたいなというのは通用しない。一人乗りのゴンドラにでも乗せられている感じ。この一人乗りというところがポイント。順々にスタッフに準備してもらうので、絶対同じ時間でプレイスタートされない。そのため、ルールを乱して観賞する人がいなければ、自分よりも前の人はずっと一つ前の交わらない時間の中にいて、自分よりも後ろの人が自分よりも先に次の作品を鑑賞することもない。だから、前の人を見ていると、そろそろ自分もこの作品を鑑賞する時間が終わるとかわかる。そして、耳に入る指示に従って、自分も次の作品に移動を始める。この観賞タイミングの予測可能性は、ある種、空間として隣人の鑑賞者と同時性や、空間の一体感を得るかと思いきや、全くの孤独感を僕に与えた。どこまでも言っても一人で作品と対峙している感じ。個人的に耳から僕の観賞態度はmp3プレイヤーに支配され、同じような動きをしている周囲の人間と自分が同じ場面(フェイズ)にいるなんて全く思えない。同じ時間、同じ空間に居合わせた他者は自分と同じ作品を鑑賞していても、常に視点も文脈も違う中で作品を見ていることはない。美術館というか作品に向かう各人の態度や感情として、当たり前なのだけど、僕はm3プレイヤーに支配され、モバイルアート内で他者と繋がれない孤独感を味わい、作品と向き合った。
こう思わせたのは、束芋の虫をモチーフにした映像作品だった。ちょうどこの映像作品を見始めたとき、虫の羽根、蝶や蜻蛉の羽根がひらひら舞い落ちるシーンだった。それが、だんだんと虫たちのシルエットと動きが見えて、また羽根が落ち、虫が消え、というような流れを持って、見た。それはたまたまそういうタイミングだった。個人の時間に対して、作品のループし続けて、回転してながら静止している時間と、僕はそのように出会い、映像作品にそうした文脈を見たのだ。そういうタイミングだったのだ。しかし、数分後にやってきた次の人は決して自分と同じ文脈では見れない。羽根がひらひら舞い落ちるシーンは終わっていて、次のシーンだったからだ。
そして、僕は後ろの人がどのシーンでその場所を離れるかわからない。僕は必ず先に、その場を離れるからだ。このとき、「あぁ、僕は一人なのだ。一人でここに立っている。」と思った。

2008年6月13日金曜日

レクチャーをした

学部生の演習で自分の研究に関する分野で簡単なレクチャーをする機会を頂いた。
ごくごく少数の演習だったのだけど、普段の研究から戦災復興にまつわる都市計画史の概論、そこで扱われているトピックの視点の提示などをする。15分程度の説明ということだったが、結局30分以上しゃべってしまっていた。
まだまだ人前で自分のしたことを発表するということではなく、教えるという在り方をあまり経験していないので戸惑いもあった。前日からこれまでの自分のメモを整理して、資料を作成して、当日話す流れを確認。
研究発表のとき以上に自分のストーリーをそこで再生するよりも、その場の反応を見ながら、状況見つつ話を展開させるようにする。といってもあまりちゃんとはできなかったかな。
こういうレクチャーの経験は、言霊的というか、繰り返し繰り返し同じ話をしていくことで、自分が鍛え上げられていくという感じがした。話終わった後で自分の頭が軽くすっきりした感じを味わう。さらに話終わって、質問が出たところで自分的には新たな発見もたくさんあり、受講者以上にこちらにとってゲインがあったんじゃないかという感想。謝々。
貴重な体験でした。

2008年6月11日水曜日

人か、化け物か、

先週末、会期の終わってしまう国宝薬師寺展を見に、東京国立博物館へ。

いろいろと前もって情報をチェックしてあったので、なかなか興味深く見ることができた。
特に情熱大陸で、専属の展示デザイナーの回なんかもあって、現金なもので、照明とかいつも以上にしっかり見てしまう。
そこで、気がついたことは、仏像の表情が見る角度によって、全然変化するということ。なんとなくわかっていたようなことだけど、改めて、これはすごいなと思った。
今回の展示の目玉、日光・月光両菩薩像は普段は見れない背面まで、360度見ることができ、菩薩像の正面は高台になっていて、下から見上げの視点だけでなく真正面から対峙することもできた。この表情が変化するというのはなぜ、起きるかというと顔にできる陰影を鑑賞者がそれぞれの角度から読み取って意味づけするから起きるんだと思った。わかりやすい例で言うと、普段からうつむくという顔、ないし頭部の角度に、元気がなさそうという意味づけをしてみているわけだけど、これは陰影と非常大きな関係にあるんだと思う。下を向いて顔の半分に影がほんのりとかかることで、人はああうつむいている(うつむいている表情になっている)なと判断するのかもしれない。

あと、驚いたのは、両菩薩の説明であるように、その美術的技術の高さ、写実的な表現、肉質感などが謳われているけれど、その足のなんとものっぺりとしていて、ごつい、像とのバランスで見ても異様にでかいように感じた。仏の足は仏教教義の中でも意味のある部位。
もちろんあれだけ巨大鋳造の立像なので、立たせるバランスは大事なので、台座と身体を支える足が若干ごつくなるものかもしれない。けれど、人間離れしているあの足!!
なんとも、あの足を見たときに、身体上部の瑞々しさに魅了されていた状態から、菩薩様は人間じゃないんだという戦慄を覚えた。しばらくは、足に注目していろんな立像を見て回りたくなった。ダビデ像の足とかどうなっていただろうか。

2008年6月9日月曜日

彼方から音盤が(その3)~極々私的ディスク選~

【3】 David Grubbs & Nikos Veliotis / The Harmless Dust

―そのアパートの部屋を訪れたからと行って、家主が居るとは限らない。しかし、我々はほぼいつでもその部屋に上がることができる。部屋の中では、剥製と見間違うようなリアルな鳥の置物が木に止まっているのを横に見ながら、ソファでくつろぐこともできる。気が向けばそこでBOSEに電気を吹き込み、ボアダムスの10周年アニバーサリービデオを再生することも、そこに置かれた音楽を気ままに聞くことも可能だ。―

この一節はそこで起こり得たその部屋の状況。僕はその部屋が好きだった。ちゃぶ台の上、ないしちゃぶ台自体はいつでも演奏できる状態にあったし、眠くなったら横になれるベッドもあった。何より家主篠原敏蔵は寛容で穏やかな人で、いつでも僕らを受け入れてくれて、サービス精神に溢れた人で、僕は彼と彼の部屋が大好きだった。彼の部屋に居るとみんな、自由にリラックスできた。そして、彼は今までに僕にたくさんのことを教えてくれて、大事なことにたくさん気づかせてくれる人だ。

そんな彼の家で幾度となく行われたdb_electroという映像と音楽を同時に同位で演奏する僕のバンドのミーティング(そのミーティングの様子はそのまま僕らのライブの映像ソースとしても使われている)の時のことだ。大概、ミーティングはいつも開始時間が23時をまわって集合し始める。そして、いつもみんなが思い思いに本を読んだり、漫画を読んだり、パソコンで動画を見たり、音楽を聴いたり、ご飯を食べたりしながら、ミーティングが始まる。そんなときに、ふと、この音楽がかかる。状況は大して動かない。それぞれがそれぞれの感覚器を知覚させたいままにしている。音楽が鳴っている。時間は流れているのだろう、音楽は止まらない流れの中に居つづけた。

ふと顔を上げる。他のメンバーの様子は変わらない。ミーティングの議題とプラスチック容器のパスタ(ソースがなんであったか?もしかしたら、ハンバーグかなにか付け合せのパスタだったかもしれない)が絡みあって、次のライブのフレームを形作り始める。歯を磨いているメンバーもいる。そのリズムと関係なく、音楽は鳴っていた。僕も当然話の輪に加わる。音が止まらずに時を創る。話を聞きつつも、息を呑む。ピアノが鳴る。そして、音楽が鳴る前の自分と今の自分の感覚に既に変化が起きていることに僕はゆっくりと気づいていった。

僕はあの夜もおそらく興奮していたと思う。それは周りから見ればいつもの興奮した感じに見えたかもしれない。でも、それはきっと違う。僕がそうだと信じている限り。そんな6畳2間ぶち抜きの家での話。

2008年6月3日火曜日

思い出し日記:バンコクを肴に飲む


先月のバンコクでのこと、続編。

今回の旅は、ホテル周辺、レストランやバーを見てまわる旅で、毎晩はしごに次ぐはしごという感じ。連れの希望で、ここ最近世界的に流行っているルーフトップバーを巡ったり、ホテルのレストランチェックしてまわった。
バンコクのルーフトップバーは数年前にできたもので、かなり先駆的事例らしく、興味深かった。

一 軒目、ステイトタワーのTHE DOME(写真上)。地上64階のルーフトップバー。それより高層に客室部があり、それが壁のようになっているものの、200m近い上空からの夜景は最高。風もほと んどなく、東京の夕方から夜にかけての海から吹く浜風を想像していた自分としては非常に快適。
65階からアプローチして64階のテラスに降りる空間構成も、夜景をしっかり楽しんでから、席につけるので非常に楽しい。席間隔もゆったりしていて、スタッフの接客もよかったと思う。

翌日二軒目、バンヤンツリーホテルのvertigo(眩暈という意味、写真下)。完全にルーフトップ。遮る物一切無し。360度大パノラマ。こちらは、ホテルが建った後に計画されたバーらしく、屋上階に出るアプローチの階段が狭く、通路もホテルの屋上サービスルーム(空調室やエレベータールーム等)の上にあるらしく、スキップフロアのようになっている。そこが面白いといえば面白い。週末の夜22時あたりに行ったということもあって、大変盛況。けっこう人でひしめいていて、日本じゃ消防法上とか絶対無理だろう人数が飲んでいる(そもそも腰ぐらいまでしかないアクリルの囲いがあるだけで、日本での実現は難しいと思うが)。ぼくらが通された席は、まさにその囲いにくっついた席で、ちょっと身を乗り出すと、膝が震える感じ。風が気持ちよく、照明はかなり控えめ(オーダーのときは、マグライトを貸してくれる)。バンコクの夜景をしっかり楽しめる。ただ、バー自体は後付で、僕らの通された席は、下の階のレストランの排気ダクトがそばにあって、食べていない北京ダックの香りが常にそこにはあった。

三軒目は、バイヨークスカイホテル。
最終日の夜出国間際だったので、タイ国内最高の展望室から夜景を眺めてくるだけで、バーでお酒を飲む時間はなかった。ホテルのランク的にも前述2軒に比べて下がる感じで、完全に観光スポット。ツアーの客もたくさんいて、ホテル施設は超充実。4階あたりのレセプションカウンターの前にはコンビニ完備で、室内ゴルフ練習場なんかもあったりするメガホテル。初海外の大人の人や家族連れにはいいかもしれないけど、出国直前、はしご数軒後のぎりぎりの時間ではちょっと全体的にここで何かを楽しむ余裕はなかった。

総じて、地上200m超のオープンエアのルーフトップバー、聞きしに勝る感あり。風の強さや、温かい土地柄など、実現可能な為の条件がいくつかありそうだけど、体験するとしないでは大違い。(台風のときとかどうしているのかしら?とは思ったが、テーブルは打ち付けてあった。)後付でつくったvertigoは、その普請感から、砦っぽさというか、探検の先にある楽園感があって面白かったし、The Domeは、ラグジュアリーで空間から夜景の演出まで手がしっかり入ってとてもよかった。どちらも21世紀型バベルの塔でした。別に壊れろという意味ではなくて、人の欲望がここまで実現できるようになったという感動。