シャネルのモバイルアートを体験しに代々木公園へ行く。
ザハ・ハディドが設計し、世界を巡回している移動型パビリオンでの展示。着くとなかなかがっしりとした数のスタッフに案内されて中へ入る。ここでも数人のスタッフの人に順々に対応してもらい、ヘッドフォンとプレイヤーを首にかけてもらい説明を受ける。鑑賞者は、一列に椅子に座って並び、一人ずつ、音楽とともに聞こえた指示に従って、館内を巡り、数々の作品を見て回る。ヘッドフォンをつけて、一人ずつ見て回る、それはまるでサファリパークのような感覚だった。
指示通りに動くというのは、鑑賞者がそのタイムラインに従い、ルール的にはそこで不可逆な観賞を強いられる。もうちょっと見たいなとか、もう次に行きたいなというのは通用しない。一人乗りのゴンドラにでも乗せられている感じ。この一人乗りというところがポイント。順々にスタッフに準備してもらうので、絶対同じ時間でプレイスタートされない。そのため、ルールを乱して観賞する人がいなければ、自分よりも前の人はずっと一つ前の交わらない時間の中にいて、自分よりも後ろの人が自分よりも先に次の作品を鑑賞することもない。だから、前の人を見ていると、そろそろ自分もこの作品を鑑賞する時間が終わるとかわかる。そして、耳に入る指示に従って、自分も次の作品に移動を始める。この観賞タイミングの予測可能性は、ある種、空間として隣人の鑑賞者と同時性や、空間の一体感を得るかと思いきや、全くの孤独感を僕に与えた。どこまでも言っても一人で作品と対峙している感じ。個人的に耳から僕の観賞態度はmp3プレイヤーに支配され、同じような動きをしている周囲の人間と自分が同じ場面(フェイズ)にいるなんて全く思えない。同じ時間、同じ空間に居合わせた他者は自分と同じ作品を鑑賞していても、常に視点も文脈も違う中で作品を見ていることはない。美術館というか作品に向かう各人の態度や感情として、当たり前なのだけど、僕はm3プレイヤーに支配され、モバイルアート内で他者と繋がれない孤独感を味わい、作品と向き合った。
こう思わせたのは、束芋の虫をモチーフにした映像作品だった。ちょうどこの映像作品を見始めたとき、虫の羽根、蝶や蜻蛉の羽根がひらひら舞い落ちるシーンだった。それが、だんだんと虫たちのシルエットと動きが見えて、また羽根が落ち、虫が消え、というような流れを持って、見た。それはたまたまそういうタイミングだった。個人の時間に対して、作品のループし続けて、回転してながら静止している時間と、僕はそのように出会い、映像作品にそうした文脈を見たのだ。そういうタイミングだったのだ。しかし、数分後にやってきた次の人は決して自分と同じ文脈では見れない。羽根がひらひら舞い落ちるシーンは終わっていて、次のシーンだったからだ。
そして、僕は後ろの人がどのシーンでその場所を離れるかわからない。僕は必ず先に、その場を離れるからだ。このとき、「あぁ、僕は一人なのだ。一人でここに立っている。」と思った。
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