2007年12月1日土曜日

何を選ぶかということ

先日昼時に、近くのマクドナルドの前を通った。
そこは先日の食品偽装問題になったマックだということを後輩から聞いていて、そして、そこに僕は以前2回ほど入ったことがある。食品偽装のニュースが明るみに出て、会社役員が謝罪して、まだ、2日程しか経っていない昼下がり。そこのマックは大盛況だった。僕はその光景を見て少しびっくりした。外の歩道と直接繋がったマックのカウンターのレジ横にはB1サイズほどのパネルで謝罪とお知らせというものが掲げられているにも関わらず、いつもと変わらぬ長蛇の列。確かに、日本の食品衛生の管理基準からしても、普段の自分たちの家での食事の時の賞味期限を守る、守らないという話からしても、今回の偽装にそれほど深刻な問題があるとは思えない。現に誰も食中毒で訴えたりしていないし、人が病院に行ったり、ましてや死んだりなどしていない。
しかし、一企業、それも全国展開している大企業が、あるルールを違反したときに、こうも無反応に問題を起した店舗に列ができるものだろうか?5キロ、10キロ、速度違反をしたバスがあるからといって、しばらくそのバスに乗らないなんて、ことは僕らはしないと思う。
しかし、それと今回の一連の偽装問題は一緒だろうか?
僕はそう簡単に一緒だとは今は思えない。なぜなら、バスを乗らなくてはならない事情とマックを食べなくてはならない事情は同じとは思えないからだ。バスは場合によっては選択肢が少なくて、しょうがなく乗ったり、それに頼った生活がありえるけれど、マックの1回の食事は今の世の中、必ずしもそこでなくてはいけないなんてことはない。豊富な選択肢の中から選ばれた(選ばれるべき)マックなのだと思う。だからこそ、選ばれる側は、選ばれるように努力するのだ。今回の出来事は僕にとって、実際さほどでかい問題とは感じていないけれど、多少なりとも失望する出来事であった。しばらくは積極的にマックには行かないという選択をとるかもしれない。 でも、100円の手軽さに惹かれて、駅前でちょっとした時間潰しにコーヒーを飲みに行ってしまうかもしれない。
兎に角、僕は選べる自由のあるものにはもっと敏感に積極的に選びとっていたいのだ。それは例え小さな些細なものであっても、自分にとって納得のいく幸せなものをその中から少しでも選び取っていたいから。

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