2007年12月31日月曜日

2007年レビュー:「河口龍夫―見えないものと見えるもの―」

2007年に最も僕に衝撃を与えた展示について僕は2008年の1ヶ月が過ぎようとしているのに未だに書き切ることができない。それはまるで口の中の飴玉が溶けていくのが惜しいようで、ここに記すことができず、ただただ時間の中でその記憶を無駄に薄れさせているようにも思う。


端的に言って引っかかっていることがあるのだ。それが今ある以上に言葉を詰まらせる。
そこで人の言葉を引用する。本展示の図録の冒頭で、兵庫県立美術館館長の中原佑介が指摘するように、河口龍夫の作品において、「時間の流れ」、「時の経過」という問題は重要な問題なのだ。しかし、未だ僕はとても自分の納得のいくようにこの「時の経過」を言葉にすることができそうにない。それどころか、今も刻々一刻と過ぎていく時間の中で、おろおろとし、その一方で、この「時間の流れ」にとりつかれ、悶々としている。「もちろん、ここの作品について、そこで感じた「時の経過」なら一言、二言と感想を述べることはできるかもしれない。

しかし、僕がここで引っかかっているのは、もっと大きな関係の中にある時間だ。2002年に開催された、兵庫県立美術館開館記念展「美術の力―時代を拓く7作家―」展と、2007年兵庫県立美術館、名古屋市美術館、2館同時開催「河口龍夫―見えないものと見えるもの―」展の間の5年という「時の経過」だ。河口龍夫による作家活動は何もこの2展示を取り上げなくとも、他の場所でも精力的に活動を展開している。が、僕はこの2つの展示、とりわけ、1つの空間に、兵庫県立美術館の「光の庭」こだわりたいのだ。


そこで、僕はこの2展示の時間の経過を含めていくつかのことを取り上げなくてはならないだろう。そして、現時点での僕にはそれを列挙することでしか、語ることが出来ない。中身について、掬い取れず、言葉を持てずにいる。いずれ、「時の経過」の中でこのことを、言葉にできればいい、というのはあまりにも現場放棄だろうか。


~河口龍夫の「光の庭」に至る「時の経過」について~

・それは、安藤忠雄によって設計された、海岸に鎮座する磯場のような、それでいて、黙った墳墓のような兵庫県立美術館について触れなくてはならない。

・それは、兵庫県立美術館が誕生した経緯について触れなくてはならない。

・それは、さらに遡ること1995年1月17日の阪神・淡路大震災に触れなくてはならない。

・それは、2002年夏に「美術の力」展が終り、2003年春に筑波大学を定年退官。その最終講義の場で河口龍夫自身の言葉で「美術の力」展について語ったこと、神戸市民として自身について、震災と河口龍夫について語ったことについて触れなくてはならない。

・それは、その時に河口龍夫が、<関係―種子 水 光>についてどのように説明し、どのような語り口であったか触れなくてはならない。

・それは、2003年春に僕がどう感じたかということについて触れなくてはいけない。

・それは、この話の舞台となる安藤忠雄の設計した「光の庭」がどのようなものであるか触れなくてはならない。

・それは、5年後、同じ場所に河口龍夫が展示した作品<関係―時の睡蓮の庭>がどのようなものであるか触れなくてはならない。

・それは、冬の空と夏の空について触れなくてならない。



・それは、先ほど言った5年間の「時の経過」のさらに地平にある1995年について、もう一度触れなくてはならない。

・それは、5年間の「時の経過」と12年間の「時の経過」の「関係」について、語らなければならない。



そこまででやっと、僕は兵庫県立美術館の「光の庭」の前に帰ってくるのだ。2003年春に聞いた先生の言葉を抱いて、僕は僕の時間を経て、名古屋、神戸と旅をしてきたのだ。

ただ、僕は今も時間と空間に漂流したままだ。

2007年12月26日水曜日

ちょっとずれている

毎年なんだかんだでウォッチしているM-1グランプリ。
今年も見ました。今年も面白かった~。優勝したサンドウィッチマン、面白かった。ちょっと普通と違う感じがした。
普通、漫才はボケがちょっとおかしな感じの役回りで、それに対してツッコミが逐一正していく、突っ込むというのがセオリーだと思う。そこで、途中ボケに迎合したりもしながら、ツッコミは次々と繰り出されるボケの話の流れを裏切るおかしなところをテンポ良く指摘して突っ込んでいく。最近は笑い飯のような、ダブルボケで、裏切りのインフレを起こして、その渦で笑いをさらっていくようなスタイルも生まれてきたように思う。
それに対してサンドウィッチマンの漫才は、一見オーソドックスな漫才がテンポ良くすすむ感じなのだけど、まともそうなツッコミがちょっとおかしい漫才なのだ。ちょっとずれたボケを含むようなツッコミが出てくる。そして、ボケはそのことに気がつかないような感じで漫才が続く。この瞬間のちょっとした間、聴き手が受け取るだけの笑いが入っている。これは特に準決勝で顕著だったのだけど、なにかちょっとずれているのだけど、それが流される。漫才という対話の中で、スル―されるボケがちょっと入っている。そこが妙にひっかっかって思わず笑ってしまう。

2007年12月18日火曜日

クロッシング東松

週末は、
恵比寿、東京都写真美術館で東松照明「TOKYO曼荼羅」と、
六本木、森美術館で「六本木クロッシング2007:未来への脈動」展を梯子する。
どちらもなかなかの展示数あり、恵比寿は一人の作家が多数展示しており、六本木は多数の作家が一点、ないし数点ずつ展示するというもので対照的。長時間かけて、ひとつのストーリーを展示する場合と、一点勝負の表現による展示。全く別のアプローチを続けざまに見ると、展示室の広がりと歩いていくというプロセスで見ていくということに意識的になる。美術館は移動しながら見るというところ、始まりと終わりが設定されているというところにやっぱり大きなエンパワーされたものがあるなぁと思う。
特に森美術館はなかなか広くて、いくつかのポイントがあるとはいえ、毎回展示ルートが変わり、でかい美術館だなぁと思う。それはまるで、前回歩いたときとは別な空間になっているというのは、トルネコの不思議なダンジョンみたいだ(やったことはないのだけど)。特に今回の六本木の展示はまるで、冒険ものの洞窟のようだった。

東松照明の「TOKYO曼荼羅」、案内にも紹介してあるのだけど、「日本を見つめ、」とあり、この「日本」という対象がぐさっときた。同じ日本でなにかを被写体に写真を撮っている写真ならたくさんあるし、僕自身も日本で撮れば、日本の写真が撮れるわけだが、東松の写真に対して使われるこの「日本」を見つめ、「日本」を撮るとは全く意味の違うものだと感じた。それは普段、僕らが日本で起きていることを、世間話の体で語るとき、僕らは日本を語ろうとしているだろうか?日本のことを話題をして、語っているだけでは、東松のした「日本」を見つめて写真を撮ったことと同義の会話は成立していないのだと僕は思う。そういうことを語っている写真群だった。

2007年12月14日金曜日

大谷能生『貧しい音楽』

大谷能生『貧しい音楽』読了。

非常にラフにいうと、
聴くということの意味が複製可能なレコードの登場によって、大きく変わってしまった。音楽が生まれる場所ということの意味、音楽が創られる場所という意味もまた大きく変質したということはこれまでも指摘されてきたようにも思う。しかし、ライブやコンサートといった類が依然その儀式性を保って残っていること以上に、圧倒的にレコードの登場は音楽を聴くという意味を変えてしまった。
音楽批評として論が立脚していることはいうまでもなく、文明批評、芸術・技術史論としてもとても読み応えがある内容だった。
聴くという行為にべったりとついている時間という概念をどのように認識するか、この聴くという観点から演奏するという行為にべったりとついている時間という概念とどのように対峙するか。複製される時間と今をもう一度考えるきっかけでもあったりする。

2007年12月13日木曜日

想像を順にして詰める

昨日、今日はひとに頼まれて、その人の準備しているパーティーでかける音楽のMixCDを作っていた。作っていたと言っても、そんなに本格的にがっちりつないで、Mixしてそれを録音するというよりも、プレイリストを考えて、並べてCDーRに焼くというもの。パーティーのタイムスケジュールに合わせて全部で4枚ほど準備してみたのだが、このMix作業なかなか面白い。昨日の段階ではかなり自分の好きなようにかかったら面白そうな音楽を並べていっていたのだが、どうもパーティーの趣旨に合わないようで、再度今日向こうの意向を聞いて作り直した。
そうすると、どうだろうか、パーティーの様子を想像しながら、こういう音楽がかかったらどうかなとか、頭の中ではパーティーが始るのだ。それに合わせて、音楽を並べていく。未来に向けたDJのような意識にだんだんとなっていく。まるで劇作家が脚本を書くような感じともいえなくもないけど、実はそこで、未来で起こる音楽体験を先に追体験(本来は過去のある体験をその後することだけど時間軸が一段階未来へずれている)するという感覚になる。大げさに言いすぎのようだけど、なかなか興味深い体験だった。
MixCDを作るという行為もなにか自分にとって、自分の音楽の感覚を磨く習作のようで今後も続けてやっていきたいことかもしれないと思った。

2007年12月12日水曜日

危険感知

先週、僕が東京にいない間にいつも使っている電車で、若い男の人が電車と接触して亡くなったらしい。彼はどうもイアフォンをして音楽を聴いていたらしいが、それが事故と直接どのように関係あるかわからない。しかし、事故につながるリスクをあげていたことは確かだろう。
僕は普段から電車のホームでの事故は自分もその被害者になるかもしれないと思っている。電車がホームに着いて、自分の目の前を通る度に、「今この瞬間にちょっと立ち位置がぶれたら、死んでしまうかもしれない」とか考えてしまう。人がいないガラガラのホームならまだしも、ラッシュ時の新宿駅などいたら、人ごみで何かの弾みで押されて、落ちないとも限らない。ホームドアの設置が遅々として進まないけれど、早急に設置していくべきだと思う。事故による多大な損失コストよりも設置の方が安いのではないか?
最近、丸の内線にホームドアが設置されたが、ちょうど今、調整工事のため、ホームドアが開けっ放しになっている。これをはじめて見たとき、その時の自分の感覚に自分自身がびっくりした。その普段閉じているはずのドアが開けっ放しになっていることに若干心細く思っているのだ。冷静に考えれば、危険なことなどほとんどないし、去年まではホームドアすらなくて、それが普通だったのにだ。この半年程度、すっかりホームドアに守られてしまっていて、安全ボケしていたようなのだ。そこまで考えると、普段からの自分の危険認識の適当さによく気がつく。
しかし、安全とか危険とかいう感覚は常にそのようなもので、油断せずにどの状況にまで追い込まれると本当に危険でその手前までは程ほどにしておけば安全だということちゃんと認識してさえいればよいのだ。こんな当たり前のことに、開けっ放しになったホームドアは僕を小ばかにしたように開いている。そういえば、インドのムンバイの都心と郊外を結ぶ在来線はドアが開いたまま、電車が走っていたような……

2007年12月11日火曜日

たんけんぼくのまち

今日、ある景観ガイドブック編集作業の打ち合わせ中、中に折り込むガイドマップをどうするかという話の中で、一例として僕は子供の頃の記憶としてNHKの教育番組であった「たんけんぼくのまち」の話をしたのだけど、一回りも違わない下の世代の後輩たちには全く通じなかった。

いつごろ放送されていたものだろうと思ったら、84年~91年までの3年生の社会科番組とのこと。確かにこれだと彼らは見てないかもしれないなぁと。
wiki 「たんけんぼくのまち」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%82%93%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%BC%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%A1

改めて思い返してみると、この番組、まちの中を探検して、地図を書いて表現するというスタイル。今の僕の原点のような気がする。小学校の卒業文集の編集をしたりもしていた当時、巻末にみんなのいたこのまちっていう感じで、オリジナルの地図をつくって、そこにみんなの思い出をちりばめた絵地図をつくったりもしたのを思い出した。そこには、いつもの公園でどんな遊びをしたとか、ここが近道だとか、秘密基地だった工事建築資材置き場や裏山だとか、暴走族が集まる通りとか、本当に自由にいろいろなものをマッピングした地図だった。

2007年12月9日日曜日

ブログパーツ

ブログ右側にブログパーツをためしにつけてみた。
ワンクリックの広告費分を広告主の企業が代わりに募金するというもの。1億人が1回ずつクリックすると、1億円その企業が募金する。僕はネットならではの募金方法だなぁと思って、これまでもちょくちょくクリックしてみています。本当はそれは個人の募金としては大口でやったほうが効果的だとはもちろん思うのだけど、何もしないよりは募金になるし、ぼーっとネットサーフィンしている合間にささやかなものだけれど、よかったら、クリックしてみてください。

2007年12月1日土曜日

何を選ぶかということ

先日昼時に、近くのマクドナルドの前を通った。
そこは先日の食品偽装問題になったマックだということを後輩から聞いていて、そして、そこに僕は以前2回ほど入ったことがある。食品偽装のニュースが明るみに出て、会社役員が謝罪して、まだ、2日程しか経っていない昼下がり。そこのマックは大盛況だった。僕はその光景を見て少しびっくりした。外の歩道と直接繋がったマックのカウンターのレジ横にはB1サイズほどのパネルで謝罪とお知らせというものが掲げられているにも関わらず、いつもと変わらぬ長蛇の列。確かに、日本の食品衛生の管理基準からしても、普段の自分たちの家での食事の時の賞味期限を守る、守らないという話からしても、今回の偽装にそれほど深刻な問題があるとは思えない。現に誰も食中毒で訴えたりしていないし、人が病院に行ったり、ましてや死んだりなどしていない。
しかし、一企業、それも全国展開している大企業が、あるルールを違反したときに、こうも無反応に問題を起した店舗に列ができるものだろうか?5キロ、10キロ、速度違反をしたバスがあるからといって、しばらくそのバスに乗らないなんて、ことは僕らはしないと思う。
しかし、それと今回の一連の偽装問題は一緒だろうか?
僕はそう簡単に一緒だとは今は思えない。なぜなら、バスを乗らなくてはならない事情とマックを食べなくてはならない事情は同じとは思えないからだ。バスは場合によっては選択肢が少なくて、しょうがなく乗ったり、それに頼った生活がありえるけれど、マックの1回の食事は今の世の中、必ずしもそこでなくてはいけないなんてことはない。豊富な選択肢の中から選ばれた(選ばれるべき)マックなのだと思う。だからこそ、選ばれる側は、選ばれるように努力するのだ。今回の出来事は僕にとって、実際さほどでかい問題とは感じていないけれど、多少なりとも失望する出来事であった。しばらくは積極的にマックには行かないという選択をとるかもしれない。 でも、100円の手軽さに惹かれて、駅前でちょっとした時間潰しにコーヒーを飲みに行ってしまうかもしれない。
兎に角、僕は選べる自由のあるものにはもっと敏感に積極的に選びとっていたいのだ。それは例え小さな些細なものであっても、自分にとって納得のいく幸せなものをその中から少しでも選び取っていたいから。

2007年11月30日金曜日

夜明け

あまりいい趣味ではないと思うけど以前書いた日記を読み返している。意外と忘れてしまっていることだらけだが、それを一文字一文字読んでいくとすぐにそれを書いたときの心持が蘇り、その時の情景が脳裏に一瞬で戻ってくる。
今日、頁を繰ったのは2003年の秋頃、カンボジアでの日記だった。そこで、僕はシェムリアップにあるアキーラー氏の地雷博物館に行く。熱帯林に隣り合った館内には、これまでにアキーラー氏によって信管を抜かれ撤去された夥しい数の地雷が展示されていた(展示というか実際は高く積み上げられていたという方がふさわしいかもしれない)。そして、それらと並んで一角の小さな机には、売上がチャリティーとして地雷撤去に使われる写真集が売られていた。内容はアンコールワットなどカンボジアの風景の写真だ。その中のあるワンカットで僕の頁をめくる手が止まる。確かそれは暗闇の中、アンコールワットのシルエットの向こうから朝日が昇ってくるところを収めた写真だった。画面は全体的に黒というか闇の只中にあり、アンコールは輪郭のみが朝日に縁取られて、その表情はほとんどわからない。この写真にはコメントが脇に小さく申し訳程度に記されていた。

「夜明け」

この小さい白い字を読んだときに僕は手を指を動かすことができなかったのだ。この真っ黒な画面の向こうで小さな光が昇ってこようとしている。しかし、依然として、まだここは夜なのだ。闇の中なのだ。僕は今までに何度でも夜が明けるのを待ち望んでいたし、実際明けなかった夜はなかったのだ。そんなこと自明のことだ。しかし、「自明」。自らが明るい、この「夜明け」?
明るいか?
いや、全く明るくない。まだ、暗いのだ。
僕はこの時まで、夜明けについて明けていくことしか考えたことがなかった。まだ明けてきっていない。闇に覆われた底の底で、夜明けを背にした見えないアンコールワットの表情。どこまでも静かだ。
そして今、またこの時間、表情の見えない向こうを窺いながら、僕は夜が明けるのを待っている。

2007年11月29日木曜日

思い出し日記

これもまたある朝のこと。
それは、中央線の快速電車が、中野を出発して、新宿へ向かう途中だった。西からずっと直線で来ていた線路がちょうど弧を描き始める頃だったから大久保に向かう東中野あたりだったのだろう。僕は中野で椅子に座ることが出来、森山大道の「犬の記憶 終章」を読みながら写真のこと、森山のこと、僕の数少ないカメラマンの知り合いの山口さんのことなどを思いながら、南を向いて最後尾の車両の7人掛けに座っていた。
次の瞬間、がたんというレールの継ぎ目の音に気をとられたような気がして、本から顔を上げると、左頬に冬がはじまったばかりの日差しがあたっているのを感じた。その光を僕は眼の奥に入れると、少しやわらかくて直射の日光が決して眼球の奥を指しているわけではないことを知った。ほんの一瞬だった。やや埃の舞った車内で、光がぼんやりと春にはない明かるさでもって、窓ガラスに反射し、向こう側に新宿の影が見えた。静かな一瞬だった。レールとレールの継ぎ目をまたぐ音がその時だけはしていなかったように感じる。
あっと思い、まだその流れている時間を僕はその時間が立ち去るまでの時間を強く意識して感じていた。彗星が流れるよりは長い時間だ、まだ大丈夫だと思い、カメラが手元にないことを、地球を光が一周するぐらいのスピードだけ呪い、残りの時間はこの時間を忘れないようにと、その光が立ち去るまでは感じてそこに首を傾けて、シートに座っていた。その時間は確かに短かった。気が付いたら、日光は直射で僕の眼を刺し、影だった新宿は大きくなって、歌舞伎町、靖国通り、東口、アルタをプロジェクションしていく。
僕にはまだ撮れない写真が多く存在する。

2007年11月26日月曜日

ある日の電車のおじいさん

もう少し前の話。その日は少し暖かい、少なくとも電車内は暖かい日差しがさしていた。その電車で隣に座ってきたおじいさんはグレーのジャケットに藍色の縦のストライプが入ったシャツに黄色が少し光って見えるネクタイをして、茶色っぽい赤のハンティングを被っていた。おもむろに開く文庫本は村上春樹の海辺のカフカだった。横に座って、おじいさんが読んでいるところを盗み見していた。まだそれは読み始めたばかりでナカタさんが猫と話をしている最中だったような気がする。おじいさんは電車の中で10ページも読めなかったと思う。ゆっくりページを繰っていた。僕達は同じ駅で電車を降りた。その駅は御茶ノ水だった。御茶ノ水に着く手前、水道橋を過ぎたあたりでおじいさんは老眼鏡を外そうとして、手元がくるったのか、膝の上にめがねを落とした。僕はあっと思ったけど、手も声も出ずに自分の読んでいた本にも集中できずにおじいさんを見ていた。どうか、おじいさんが海辺をカフカを読み終わるまで健やかでありますように。たとえ、それが何回目かの海辺のカフカであったとしても。