2008年12月16日火曜日
結局ジョアンは来なかった。
これも何かのお告げやもしれぬと思い、ジョアンに思いを馳せつつ、有楽町で電車を降り、この日は数ヶ月ぶりに銀ブラすることに。たまたまなのだが、今年僕の一部の知り合いで盛り上がった南博さんの「白鍵と黒鍵の間に」を読みつつ、銀座に向かう。ジャズをやったことのある者、いわゆるハコで演奏をしたことのある者なら、ここに書かれているエピソードと通底するシンパシーは何かしら得られるのではないだろうか。そして、そんな自分の体験よりもより純度の高い強烈な体験こそがそこに込められていて、熱くなる。雨上がりの冷たい有楽町から、銀座へ向かうとき、そんな20年前の空気を網膜の向こう側で想像しながら歩いた。
今日のそぞろ歩きは、エルメスのギャラリーで、フランス人作家アラン・セシャスの展示、資生堂では、写真家津田直の展示を見る。どちらもかなりよかった。満足。遅めの昼食は、つばめグリル(1丁目の本店は建替え改装中で、五丁目の銀座コア店)へ。ここの付け合せのベイクドポテトはいつも美味い。最近、隈さんによるリノベの終わったティファニーなどをチェック。
冬至間近、満月通過
月曜午前中、研究室会議。午後は設計課題TA、敷地調査の発表を聞き、それにコメントする。現場で自分が見落としていた事象もあり、勉強になる。夕方、神楽坂へ移動し、新宿区の現場の方との懇親会に出席。年度代わりで今年から担当になった方と初めてちゃんと顔を合わす。話盛り上がり、来年の展望などを聞く。火曜から木曜は、どうも作業をしたり、学内の図書館で資料を探したりしていたようだ。金曜、国会図書館へ。国会図書館は書庫から出せる資料数と、一回の複写できるページが決っているため、時間をうまく組み合わせないと時間のロスが多い。例えば、複写コーナー2箇所をうまく使い、その間に別な資料の請求をしたり、と。日曜。スタジオに入る。友達に呼ばれて、遊びに出かけた格好だったが、集められたメンバーが思わぬ人選で、かなり楽しく音楽できた。バイナリのヘイ君なども駆けつけ豪華なセッション。ただ、時間的には消化不良で、また近々に集まりたい感じ。自分としては、tko氏とハイネマン521が揃っていたのが、今までにない組合せで感慨深かった。軽く近くの飲み屋で打ち上げ。ちなつ嬢もやってきて、ホーミー談義に花が咲き、ホーミーの合唱。
翌火曜、博士課程自主ゼミ、通称Dゼミ。同期の発表、かなり議論が盛り上がり、刺激的だった。自分もがんばらねば。水曜、ここ最近の懸案事項だった論文を提出。あとは野となれ山となれ。木曜、本MTG。今日は作業日というか検討日というか、今までよりもやや議論のレベルが具体的なレベルに落ちてきたので、かなり充実していた気がする。修士課程の議論参加率も上がってきた。土曜、友人の結婚式で横浜へ。非常に素敵な祝福されるべきカップルの結婚式というのは、本当に気分が良い。みなとみらいの観覧車の見える、お二人らしいロケーション。近くには業務ビルもあるわけで日常的に観覧車が見えるってどんな気分かしらなんて思いつつ、麦酒や葡萄酒を煽る。久々に会うミュージシャン仲間と年齢と活動スタンスなどの話で盛り上がる。日曜、ジョアンは結局来なかった。残念。次の機会を心より待ち望む。
2008年11月28日金曜日
久方振り
という書き出しの日記を僕はこれまでに何回書いただろうかと思う。書く気がしなかったのだからしょうがない。過ぎ去ってしまった日々については、どんどんと忘れていく一方のようだが、必ずしもそうとだけは言えない時間量があった。今はこれについて自分は記述する術は持ち合わせていないが、いずれまたどこかで書くこともあるだろうと思う。
近過去を語るとはそれだけ難しいことでもある。
とはいえ、今年度の重要なタスクのひとつが一区切りし、しかし最大のタスクはまた次の機会にホールドオーヴァーされた。今はまだ期が熟していないということか。そう思い込むことにしたか。それについての判断は今はまだ出来ない。これもまた判断した今となっては、選択を終えた近過去のことになってしまったのだ。結果は数年後かもしれない。
とはいえ、最近の忙しさについては何か記しておきたく、久々の書き込みとなった。
今月は、三五嬢のグループ展を見に行った翌週、月曜設計演習のTAが始まり、火曜は学内で本MTGと、大塚でMTG、水曜は神楽坂で地元勉強会、日曜から月曜で設計演習課題地、長岡視察、火曜に学内で先生交えての本MTG、水曜は旧古河邸にて話し合いの場に同席、木曜はTAと鈴木先生最終講義シリーズに出て、近々に入るスタジオでのプランについて少し思いを馳せて練習する。
それぞれがそれぞれのパズルのピースを持っていて、今手元にはそれぞれ別々のパズルのピースがあるが、いずれどこかで、一つになるような気がする。
2008年9月22日月曜日
審議か裁判か
判決文など読んでいないが、ニュースで見る限り結果そのものには納得。但し、現在の裁判でしか計画の是非を問えないような状況を解決しない限り、対処療法に過ぎないのではないかと思う。如何に計画を行なうかと同じだけ如何に計画をやらないか、検討出来るかということも重要だ。
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20080911/CK2008091102000230.html
-----------------以下、引用--------------------------------------------
2008年9月11日
静岡地裁に差し戻し浜松市の遠州鉄道・遠州上島駅(浜松市中区)の土地区画整理事業をめぐり、住民が事業計画の決定段階で取り消しを求める訴訟を起こせるかどうかが 争われた裁判の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・島田仁郎長官)は10日、42年ぶりに判例を変更し「訴えることができる」との判断を示した。住民側 の訴えを退けた一、二審判決を破棄、審理を静岡地裁に差し戻した。
1966年の最高裁判決では「計画の決定は一般抽象的な『青写真』にすぎず、訴えの対象にはならない」と判示。交換する土地を具体的に指定する 「仮換地」の段階で初めて訴えることができるとしていた。今回の判決で早い段階で、反対住民らが決定の取り消しを求めることが可能になる。
15人の裁判官全員一致の判決意見。
遠州上島駅の高架化などに伴う土地区画整理事業で、浜松市が2003年に対象地区や概要などを示した事業計画を決定し、計画に反対する地権者ら34人が計画の取り消しを求めて提訴した。
大法廷判決は「計画が決定し公告されると、換地処分まで建築制限を課されるなど、宅地所有者の法的地位に直接的な影響が生ずる」と指摘。「処分後 に訴えを起こし、計画の違法性が認められても、既に工事が進んでいて事業全体に混乱をもたらすとして、訴えは退けられる可能性が高い。住民の権利救済は十 分に果たされない」として、計画決定段階で訴えることの合理性を認めた。
一審の静岡地裁、二審の東京高裁はともに、66年の最高裁判決に沿って住民側の訴えを退けていた。
2008年7月6日日曜日
2008年7月3日木曜日
夏野菜の盛られた蕎麦を啜る
久しぶりに神田やぶそばへ。暑かったこともあって、2人とも冷茄子蕎麦を注文。つゆに浸った蕎麦の上に焼き茄子がのって出てくる。茄子の脇に添えられたオクラのしゃきしゃき感、蕎麦のコシ、茄子から出るつゆの滴り、旨い。互いの近況について、庭を望みつつ話しをする。竹のさらさらと風を抜ける音とその肌触りが心地よい。いい昼だった。
2008年7月1日火曜日
見て回る見て学ぶ
7月1日は富士山の山開きの日。これにあわせて都内の富士塚でも山開きのお祭りが行なわれる。この日しか登れない、開かれていない塚もある。上野周辺、山手線北側辺りを3ヶ所回る。
下谷の小野照崎神社、十条の富士神社、駒込の富士神社。それぞれ、原形を止めているもの、移築、築造されたもの、塚の上に神社があるものとバリエーションがあり、興味深かった。
午後は、研究室の面々で小石川旧磯野邸を見学させていただく。明治後期から大正初期に建てられた別名「銅御殿」。緻密なディテールの連続に思わず息を呑む。見学の後、ご馳走を頂きながら、現在管理されているご主人から興味深いお話をたくさん聞かせていただく。今この場所が置かれているマンション紛争の情況など、考えなくてはいけない点がたくさんある。
詳しくは下記URL参照。
http://www.geocities.jp/akaganegoten/index.htm
2008年6月30日月曜日
幸せな感じでぶっ倒れる
がっつりに牛肉、豚肉、鶏肉などを七輪で焼き、麦酒とともに食らう。麦酒がドライブしつつ、しゃべりもヒートアップしてもう一軒行こうということになり、馴染みなじゅざぶへ行く。ここのお店はつくばのフィンラガンに最近行けない身としては、ここでモルトのお勉強させてもらっている大事なところなのだ。(ここで出してくれる輸入ビールもいつもうまい)
そこで、来週、お店がアニバーサリーでお祝いイベントがあるのだけど、今年はそれに出れなそうなので、前祝いというか、そんなこともあって行ってみると、なんと!ご好意で、そのイベントのときに開けようと思っていたボトルを中心に、イベント時の料金システム(4千円で飲み放題)で飲ませていただいた。翌日オフだったのもあり、大喜びで大いに飲む。この提案をしてくれたのは、もう2杯目が終わるかなぐらいだったので、飲み代だけで、4千円にまで届かないにしろ、3杯目の頼み方によっては、届いてしてまうようなところ。なんとも、大感激な泣ける話。
飲んだやつをざーっと書いていくと、
カリラの13年、あまり出回ってないレアボトリングのアードベグの原酒7年、ハイランドパークを13年と25年とレアボトリング(名前失念)の飲み比べ、ラフロイグの若いやつ、ラガブーリンの変名ボトリングのやつ、他多数。頂く。
元取るどころの騒ぎではない。カウンターの前に酒瓶がどんどん並ぶ。もう飲みながらにやけてしまい、軽くいつ死んでもいい状態だった(また、ぜひこれをやって、何度でも「あぁ死にたい」って思いたい。)一緒に出してもらったドライフルーツもウォッシュのチーズも超イカしていました。最高。
かなりいい感じでドライブしきって酩酊の状態で別なところで飲んでいるソウルメートたちから連絡あったが、もう動けず。家に着いたら、久しぶりに3分ともたず、床に転がっていた。
2008年6月24日火曜日
似た部分から探す
当大学に来られて、午前中を使ってお互いの研究内容のプレゼンやディスカッションをする。僕もここ最近のプロジェクトとして、新宿の話をする。都内のプロジェクト、リサーチの仕方や狙い、行政の計画立案の関わり等々について話をする。前々日に急遽自分がやることになり、一晩準備する。今までの素材を英語に翻訳していくだけなのだが、なかなか一苦労。その代わりに頭の中が整理できたことも多かった。
僕はプレゼンの番が最後だったので、なかなか時間がなくて、ディスカッションを充分にできなかったのだけど、会が終わってすぐにUTMの学生の人から2,3人に質問などされて、個別に意見交換ができてよかった。
例えば、建築確認申請前の事前協議について質問があった。お互いの国の制度の細かいところまで理解が及んでいないので、建築指導のような概念をどのように運用しているか、自国と似た概念制度があるか、そこを確認するということ、そこがもっとも実践的な中身として、イシューになるんだなと実感。
2008年6月19日木曜日
2008年6月18日水曜日
目に見えないものと見えるもの
大枠のフレームから話しすぎたせいか、エモーション的に伝わらなかったかな?と思うところもあったが、概ね、良好な反応。次の一手をここからどうしていくか、さらに熟考と決断して行なっていく勇気が必要。
意識の高い人たちとの対話、議論はひとつひとつが勉強になる。
景観の議論とまちづくりの議論の接点をどうもたせるかが一番の課題。
つまりは表題、目に見えないものと見えるものの接点だ。
2008年6月16日月曜日
一人乗りの乗り物に乗って
ザハ・ハディドが設計し、世界を巡回している移動型パビリオンでの展示。着くとなかなかがっしりとした数のスタッフに案内されて中へ入る。ここでも数人のスタッフの人に順々に対応してもらい、ヘッドフォンとプレイヤーを首にかけてもらい説明を受ける。鑑賞者は、一列に椅子に座って並び、一人ずつ、音楽とともに聞こえた指示に従って、館内を巡り、数々の作品を見て回る。ヘッドフォンをつけて、一人ずつ見て回る、それはまるでサファリパークのような感覚だった。
指示通りに動くというのは、鑑賞者がそのタイムラインに従い、ルール的にはそこで不可逆な観賞を強いられる。もうちょっと見たいなとか、もう次に行きたいなというのは通用しない。一人乗りのゴンドラにでも乗せられている感じ。この一人乗りというところがポイント。順々にスタッフに準備してもらうので、絶対同じ時間でプレイスタートされない。そのため、ルールを乱して観賞する人がいなければ、自分よりも前の人はずっと一つ前の交わらない時間の中にいて、自分よりも後ろの人が自分よりも先に次の作品を鑑賞することもない。だから、前の人を見ていると、そろそろ自分もこの作品を鑑賞する時間が終わるとかわかる。そして、耳に入る指示に従って、自分も次の作品に移動を始める。この観賞タイミングの予測可能性は、ある種、空間として隣人の鑑賞者と同時性や、空間の一体感を得るかと思いきや、全くの孤独感を僕に与えた。どこまでも言っても一人で作品と対峙している感じ。個人的に耳から僕の観賞態度はmp3プレイヤーに支配され、同じような動きをしている周囲の人間と自分が同じ場面(フェイズ)にいるなんて全く思えない。同じ時間、同じ空間に居合わせた他者は自分と同じ作品を鑑賞していても、常に視点も文脈も違う中で作品を見ていることはない。美術館というか作品に向かう各人の態度や感情として、当たり前なのだけど、僕はm3プレイヤーに支配され、モバイルアート内で他者と繋がれない孤独感を味わい、作品と向き合った。
こう思わせたのは、束芋の虫をモチーフにした映像作品だった。ちょうどこの映像作品を見始めたとき、虫の羽根、蝶や蜻蛉の羽根がひらひら舞い落ちるシーンだった。それが、だんだんと虫たちのシルエットと動きが見えて、また羽根が落ち、虫が消え、というような流れを持って、見た。それはたまたまそういうタイミングだった。個人の時間に対して、作品のループし続けて、回転してながら静止している時間と、僕はそのように出会い、映像作品にそうした文脈を見たのだ。そういうタイミングだったのだ。しかし、数分後にやってきた次の人は決して自分と同じ文脈では見れない。羽根がひらひら舞い落ちるシーンは終わっていて、次のシーンだったからだ。
そして、僕は後ろの人がどのシーンでその場所を離れるかわからない。僕は必ず先に、その場を離れるからだ。このとき、「あぁ、僕は一人なのだ。一人でここに立っている。」と思った。
2008年6月13日金曜日
レクチャーをした
ごくごく少数の演習だったのだけど、普段の研究から戦災復興にまつわる都市計画史の概論、そこで扱われているトピックの視点の提示などをする。15分程度の説明ということだったが、結局30分以上しゃべってしまっていた。
まだまだ人前で自分のしたことを発表するということではなく、教えるという在り方をあまり経験していないので戸惑いもあった。前日からこれまでの自分のメモを整理して、資料を作成して、当日話す流れを確認。
研究発表のとき以上に自分のストーリーをそこで再生するよりも、その場の反応を見ながら、状況見つつ話を展開させるようにする。といってもあまりちゃんとはできなかったかな。
こういうレクチャーの経験は、言霊的というか、繰り返し繰り返し同じ話をしていくことで、自分が鍛え上げられていくという感じがした。話終わった後で自分の頭が軽くすっきりした感じを味わう。さらに話終わって、質問が出たところで自分的には新たな発見もたくさんあり、受講者以上にこちらにとってゲインがあったんじゃないかという感想。謝々。
貴重な体験でした。
2008年6月11日水曜日
人か、化け物か、
いろいろと前もって情報をチェックしてあったので、なかなか興味深く見ることができた。
特に情熱大陸で、専属の展示デザイナーの回なんかもあって、現金なもので、照明とかいつも以上にしっかり見てしまう。
そこで、気がついたことは、仏像の表情が見る角度によって、全然変化するということ。なんとなくわかっていたようなことだけど、改めて、これはすごいなと思った。
今回の展示の目玉、日光・月光両菩薩像は普段は見れない背面まで、360度見ることができ、菩薩像の正面は高台になっていて、下から見上げの視点だけでなく真正面から対峙することもできた。この表情が変化するというのはなぜ、起きるかというと顔にできる陰影を鑑賞者がそれぞれの角度から読み取って意味づけするから起きるんだと思った。わかりやすい例で言うと、普段からうつむくという顔、ないし頭部の角度に、元気がなさそうという意味づけをしてみているわけだけど、これは陰影と非常大きな関係にあるんだと思う。下を向いて顔の半分に影がほんのりとかかることで、人はああうつむいている(うつむいている表情になっている)なと判断するのかもしれない。
あと、驚いたのは、両菩薩の説明であるように、その美術的技術の高さ、写実的な表現、肉質感などが謳われているけれど、その足のなんとものっぺりとしていて、ごつい、像とのバランスで見ても異様にでかいように感じた。仏の足は仏教教義の中でも意味のある部位。
もちろんあれだけ巨大鋳造の立像なので、立たせるバランスは大事なので、台座と身体を支える足が若干ごつくなるものかもしれない。けれど、人間離れしているあの足!!
なんとも、あの足を見たときに、身体上部の瑞々しさに魅了されていた状態から、菩薩様は人間じゃないんだという戦慄を覚えた。しばらくは、足に注目していろんな立像を見て回りたくなった。ダビデ像の足とかどうなっていただろうか。
2008年6月9日月曜日
彼方から音盤が(その3)~極々私的ディスク選~
【3】 David Grubbs & Nikos Veliotis / The Harmless Dust
―そのアパートの部屋を訪れたからと行って、家主が居るとは限らない。しかし、我々はほぼいつでもその部屋に上がることができる。部屋の中では、剥製と見間違うようなリアルな鳥の置物が木に止まっているのを横に見ながら、ソファでくつろぐこともできる。気が向けばそこでBOSEに電気を吹き込み、ボアダムスの10周年アニバーサリービデオを再生することも、そこに置かれた音楽を気ままに聞くことも可能だ。―
この一節はそこで起こり得たその部屋の状況。僕はその部屋が好きだった。ちゃぶ台の上、ないしちゃぶ台自体はいつでも演奏できる状態にあったし、眠くなったら横になれるベッドもあった。何より家主篠原敏蔵は寛容で穏やかな人で、いつでも僕らを受け入れてくれて、サービス精神に溢れた人で、僕は彼と彼の部屋が大好きだった。彼の部屋に居るとみんな、自由にリラックスできた。そして、彼は今までに僕にたくさんのことを教えてくれて、大事なことにたくさん気づかせてくれる人だ。
そんな彼の家で幾度となく行われたdb_electroという映像と音楽を同時に同位で演奏する僕のバンドのミーティング(そのミーティングの様子はそのまま僕らのライブの映像ソースとしても使われている)の時のことだ。大概、ミーティングはいつも開始時間が23時をまわって集合し始める。そして、いつもみんなが思い思いに本を読んだり、漫画を読んだり、パソコンで動画を見たり、音楽を聴いたり、ご飯を食べたりしながら、ミーティングが始まる。そんなときに、ふと、この音楽がかかる。状況は大して動かない。それぞれがそれぞれの感覚器を知覚させたいままにしている。音楽が鳴っている。時間は流れているのだろう、音楽は止まらない流れの中に居つづけた。
ふと顔を上げる。他のメンバーの様子は変わらない。ミーティングの議題とプラスチック容器のパスタ(ソースがなんであったか?もしかしたら、ハンバーグかなにか付け合せのパスタだったかもしれない)が絡みあって、次のライブのフレームを形作り始める。歯を磨いているメンバーもいる。そのリズムと関係なく、音楽は鳴っていた。僕も当然話の輪に加わる。音が止まらずに時を創る。話を聞きつつも、息を呑む。ピアノが鳴る。そして、音楽が鳴る前の自分と今の自分の感覚に既に変化が起きていることに僕はゆっくりと気づいていった。
僕はあの夜もおそらく興奮していたと思う。それは周りから見ればいつもの興奮した感じに見えたかもしれない。でも、それはきっと違う。僕がそうだと信じている限り。そんな6畳2間ぶち抜きの家での話。
2008年6月3日火曜日
思い出し日記:バンコクを肴に飲む
先月のバンコクでのこと、続編。
今回の旅は、ホテル周辺、レストランやバーを見てまわる旅で、毎晩はしごに次ぐはしごという感じ。連れの希望で、ここ最近世界的に流行っているルーフトップバーを巡ったり、ホテルのレストランチェックしてまわった。
バンコクのルーフトップバーは数年前にできたもので、かなり先駆的事例らしく、興味深かった。
一 軒目、ステイトタワーのTHE DOME(写真上)。地上64階のルーフトップバー。それより高層に客室部があり、それが壁のようになっているものの、200m近い上空からの夜景は最高。風もほと んどなく、東京の夕方から夜にかけての海から吹く浜風を想像していた自分としては非常に快適。
65階からアプローチして64階のテラスに降りる空間構成も、夜景をしっかり楽しんでから、席につけるので非常に楽しい。席間隔もゆったりしていて、スタッフの接客もよかったと思う。
翌日二軒目、バンヤンツリーホテルのvertigo(眩暈という意味、写真下)。完全にルーフトップ。遮る物一切無し。360度大パノラマ。こちらは、ホテルが建った後に計画されたバーらしく、屋上階に出るアプローチの階段が狭く、通路もホテルの屋上サービスルーム(空調室やエレベータールーム等)の上にあるらしく、スキップフロアのようになっている。そこが面白いといえば面白い。週末の夜22時あたりに行ったということもあって、大変盛況。けっこう人でひしめいていて、日本じゃ消防法上とか絶対無理だろう人数が飲んでいる(そもそも腰ぐらいまでしかないアクリルの囲いがあるだけで、日本での実現は難しいと思うが)。ぼくらが通された席は、まさにその囲いにくっついた席で、ちょっと身を乗り出すと、膝が震える感じ。風が気持ちよく、照明はかなり控えめ(オーダーのときは、マグライトを貸してくれる)。バンコクの夜景をしっかり楽しめる。ただ、バー自体は後付で、僕らの通された席は、下の階のレストランの排気ダクトがそばにあって、食べていない北京ダックの香りが常にそこにはあった。
三軒目は、バイヨークスカイホテル。
最終日の夜出国間際だったので、タイ国内最高の展望室から夜景を眺めてくるだけで、バーでお酒を飲む時間はなかった。ホテルのランク的にも前述2軒に比べて下がる感じで、完全に観光スポット。ツアーの客もたくさんいて、ホテル施設は超充実。4階あたりのレセプションカウンターの前にはコンビニ完備で、室内ゴルフ練習場なんかもあったりするメガホテル。初海外の大人の人や家族連れにはいいかもしれないけど、出国直前、はしご数軒後のぎりぎりの時間ではちょっと全体的にここで何かを楽しむ余裕はなかった。
総じて、地上200m超のオープンエアのルーフトップバー、聞きしに勝る感あり。風の強さや、温かい土地柄など、実現可能な為の条件がいくつかありそうだけど、体験するとしないでは大違い。(台風のときとかどうしているのかしら?とは思ったが、テーブルは打ち付けてあった。)後付でつくったvertigoは、その普請感から、砦っぽさというか、探検の先にある楽園感があって面白かったし、The Domeは、ラグジュアリーで空間から夜景の演出まで手がしっかり入ってとてもよかった。どちらも21世紀型バベルの塔でした。別に壊れろという意味ではなくて、人の欲望がここまで実現できるようになったという感動。
2008年5月31日土曜日
彼方から音盤が(その2)~極々私的ディスク選~
dbの盟友、南舘崇夫は音楽に対して実に饒舌に語る熱い男であるが、時にその音楽を口頭で表現する際の擬音表現においても、その舌は止まることを知らず雄弁に語る。擬音という、音楽的言語表現とジャズミュージックの関係(実際、ジャズに限らない。邦楽をやるフランス人もこれと同様の問題に突き当たるだろう。)は、ネイティブか非ネイティブかと問題へも発展しかねないシリアスな問題だ。日本ではシンバルレガートをチーンチキ、チーンチキなどとよく言われるが、「おまえのそれはまるで、イーンチキ、イーンチキだ」と揶揄するような言い方でも使われ、南舘もこうした点において今まで有意識、無意識問わず、数々の試行錯誤のもと彼独自の音楽が表出するような擬音表現をしてきている。
例を挙げるとキリがないが、僕が聞いたものの中で、正に目が覚める思いで唸ったものをひとつ挙げよう。バンドのリハをしていた時にある曲の話になり(その曲はもはや思い出せない。その擬音と事実しか今の僕の記憶にはない)、その楽曲中のブレイクについて彼が言及しようとした。それはギターのカッティング、それもおそらくダウンストロークからアップストロークの裏拍からの8分音符2音続きとドラムのスネア、ハイハットのハーフオープンからクローズ(ギターと同じリズム)によるもので、彼はそれを「すちゃ」と表現した。
「すちゃ」!!
おお、なんと愛くるしい擬音だろう!
もう一度、
「すちゃ」!!
裏拍という無音の虚空をつかむような感覚、「間」そのものへ果敢にアプローチしている「ス」という音。裏拍の裏感と、音が鳴っている有音感がこの「ス」には豊かに含まれている。僕はこの「すちゃ」という言葉をことあるごとに愛し、使用させてもらっている。その都度彼の顔が頭に浮かぶ。「すちゃ」!!
そんな彼が僕に薦めてくれた一枚。しかし、このCDの中で、「すちゃ」は全く登場しない。それでも、DCPRG主宰者である菊地成孔のコンダクト姿を模しつつ、冒頭一曲目Catch22のブラスセクションのリフを得意の擬音で表現してくれた彼の姿と唄は今も僕の心を掴んだまま離さない。僕はそのときの擬音を残念ながら、録音することはできなかった。もし、録音が可能であったら、その子音と母音がどのような関係でどの楽器のどの音にあてられているか、分析することも可能だっただろう。しかし、今ではもう全く成し得ないことだし、ここでこうして記述されなければ、もう二度と想像されることも無い音であった。そして、その擬音は永遠に僕のおぼろげな記憶の中で鮮明に鳴り続ける以外に再生される空間は無く、まさに空へと消えていった音を僕は追う以外に術はない。
彼方から音盤が(その1)~極々私的ディスク選~
せっかく、見つけたので、こちらに掲載してみようと思う。
お題は、あなたの好きなCD10枚を挙げて、自由に思いの丈を書いてください。というものだったと思う。ひねくれた僕はディスクレビューをするということを軽く放棄して、書きたいことを書こうと思ったのだが、当時あまりにも頭でっかちになってしまい。書ききれなかったのだと思う。この文章はそれの断片。
彼方から音盤が~極々私的ディスク選~
【はじめに】
音楽(とりわけある音盤)との出会いには大きく二つに分類することができるだろう。ひとつは自発的、偶発的の差あれど、自らその音盤に出会うケース、もう一つは誰か他人に推薦され、その音盤に出会うケース。これまでに筆者も様々な音盤と出会っているわけだが、その中で個人的な思い入れのある10枚を選ぶというこの依頼に対して、前者のものはあまりにも数が多く、選ぶための全体を把握すらできないだろう。
そこで、今回は後者の方、他人に推薦された音盤から選び、それを紹介することにした。
もっと言うと自分にとって心に残る印象的な人を10人選び、彼らが自分にいったい何を薦めたかということを飛び越えて、その人が僕に与えた音楽的な何かを直接・間接的を問わず書いてみたい。それは言ってみれば、僕の音楽的人格形成に影響した人々についての話に最終的になっているのと思うし、それがたとえディスクレビューという形になっていなくともまずは書いてみることにする。だからと言ってはなんだが、極力そのCDに関することは敢えて書かないようにもしてみる。また、これらは総て僕の後日談であって、多分に妄想的回顧録であることは前もって断っておきたい。そして、そうした性質を持ったテキストであるため、各テキストの文中には必ず最低1回は記憶があいまいなこと、失念していることを書き記し、僕がもう当時とはずいぶん遠くに来てしまったということを記しておく。
【1】Keith Jarrett / The Melody at Night, With You
これは関東平野の闇を切り裂く夜中の2時頃に県道をひた走る車の中で初めて聞いた。厳密に言うと、これは直接的に薦められて聞いたものではない。彼らが聞いていた時に自分もそこに居合わせていただけだ。このCDをおもむろに車内でかけた男はつい先ほどまで、あるジャズクラブ(そのクラブの名前は忘れた)で演奏をしていた、KAZUこと横島和裕氏だ。彼の運転するワゴン車の助手席には、ドラムス大井澄東氏が座っており、今日のギグのことを話している。僕はその後ろのシートで暗い中、二人の話を聞いている。当時、本当に小僧だった僕はボーヤをしていた。エンジン音の間から乾いたピアノの音が鳴り、車は北上している。前の席の二人が黙る。煙草に火がつけられて、窓が開く。「こういう音楽が俺たちには必要だ」と横島さんが呟く。窓が閉じて、車は川を越えて、帰宅の途に就く。この時僕はまだ、キースジャレットがこのアルバムを病気からのカムバックのために自宅で録音したものだとは全く知らない。車はこの日のギグへの思いをつめて、一日を終らせるために走っていた。
2008年5月29日木曜日
目が乾く雨降りの日
基本的に終電で帰宅と、装用時間が長いせいもあるが、あまり自分には合わないのかもしれない。深夜の話と言えば、夏至が近づいているので、夜がとても短い。終電で家に帰って、だいたい、2時前。晩飯を食べて、ちょこっと作業したり、練習したりとして、4時半過ぎには空がもう明るい。この時期の明け方は、冬に比べて、空が青くて綺麗。
昨日は行き帰りの電車の中で先日古本屋で買った、村上龍・坂本龍一の「モニカ」という本を読む。
坂本の夢日記を素材に、原稿用紙4枚分の短編と写真を村上が提示しているというもの。夢日記自体も面白いのだけど、村上はこの企画でモニカという、男なら誰もがそれぞれの中で、持っている理想の女性(ここではそれをモニカと呼んでいる)の話を書いている。モニカはその憧れゆえ、触れることができず、向こうから質問はされても、こちらの質問には応えない。会話というよりはある種信号のようなものとして、一人の人間の内なる世界としてモニカは表現されている。僕にも、もちろん「モニカ」はいる。たぶん、幼い頃の記憶がめちゃめちゃに断線して、混線して、創り上げられたイメージ上の理想の女性。それがもうすでにどこか夢的な構成物で向こうから質問を浴びせてきている。これがどういうわけか25歳を過ぎたあたりから妙にそれまで以上に僕に語りかけているような気がする。暗示にして不可解すぎて、醒めない夢の中に今日もいるようだ。
2008年5月26日月曜日
大盛りを茹でる
受講生は皆さん、都市計画のプロばかりが、僕らがやった課題と同じ対象地で演習を行う。演習の内容はその地区の景観を読み解き、提案をするというもの。
いずれも、その課題から制度設計やプログラムを組み所まで提案していて、さすがプロという感じ。どういう組織をつくるか、それでどのように景観向上を目指すかという議論。非常に勉強になった。一方で、その対象地の景観がどうなっているか、良い景観とは何か?といった空間論的視点の話があまり聞かれず、彼らがどういう風に実地を感じたのかがあまり聞かれず、やや残念。一緒に発表会しあって議論をしたら面白いと思った。
同じ課題であってもやる人が変わればこれだけアウトプットが如実に変わるというところが興味深い。
今晩は家に一人だったので、久し振りにパスタでも茹でようかという気分になり、つくば時代に愛用していた皿を引っ張り出す。この皿、非常にお世話になっていた益子のギャラリー「もえぎ」http://mshop.cool.ne.jp/で買ったもの、白い釉薬がかかった大振りの粉引き。
改めて。この皿を眺めてみて、でかい。実に僕の食い意地の悪さが形に表れている。なんて言うと皿に悪いが、「ちょっとでかいでしょ、これ」というサイズ。まぁ、一人用ではない、大皿盛りパスタ皿なのだから、しょうがない。これに2~3人前は盛って、お一人様で食べる。イメージとしては、紅の豚のピッコロ社でのまかないパスタのイメージ。ちょっとこんもりするサイズ。皿の縁が高さ2cm程度、まわっているところが気に入っている。これで、山盛りにパスタを盛ってもソースがこぼれない。食べ終わった後のちょっとした後悔がいつも苦し気持ちよい。今日は久し振りだったが比較的うまく茹でれた。
2008年5月23日金曜日
しょーじきもう帰ろっかなって思ったでしょ?
膨大なデータが目の前にあるので、これを整理するだけでしばらく時間が取られてしまいそう。ルーチンは誰かに任せればいいのだけれど、こういうところから拾い出せる発見にまだまだ賭けているところがあるので、結局自分でやることになる。道のりは長いが全然嫌ではないので、まだまだ頑張る。
今日帰りがけに浅野いにおの「おやすみプンプン」2巻を買って電車内で読了。本巻も圧倒的。もうじき次が出るらしい。p182-3の見開きがすごい。思わず震える、三鷹駅。
2008年5月21日水曜日
「思い出」のやりとり
3人でアイディアを出しながら議論をしていく感じなので、モノが生まれてくるような面白さがある。久し振りにいい議論ができていると思う。
今日の議論の断片をいくつか。
・「思い出」は相続できない
・長期的時間の中に「思い出」が生まれ、短期的時間の中に「経験・体験」が生じる
・ジェスチャーとしての空間認知のあり方
・「思い出」と「歴史」の関係
体験というキーワードから始まり、時間の中でそれがどう行われるか、考えているときに僕が普段音楽やっている中で考えている「時間をどう捉えるか」というテーマに一気に近接していき、個人的には盛り上がった。
以前、ドラムソロやフリーインプロの方法論として、ごくごく個人的であるという自由さについて考えていたことがあって、その時のテーマも「思い出」だった。個人の領域としての「思い出」の再現とコラージュによって、たしか楽曲の形を作ろうとしていたのだと思う。それが実際どれくらい成功していたかはもう思い出したくもないけれど。フリーインプロみたいなことをやりはじめたときに、頭の中がちがちにして、自由であるということと、自分にしかできないことみたいな牙城に篭りきるために、「思い出」から始めようという、もう前衛なんだか、保守なんだか。頭の硬いをことを考えていたこともあったなぁと。
思う。ただ、今でも思うことは、個人の不可侵な領域としての「思い出」と個人の「ボキャブラリー」というのはすごく近接していて、とても大事な問題だろうということだ。それありきで、会話が成立しているわけで、これから脱却することはできない。場面に応じて、「思い出」の再統合をして、表出させているのだろうと思う。ひらめきだけで、100m走り切れることってそうそうないことだろう。
で、もう一方で実は忘れるっていうこともすごい大事だと思っているが、それはまた今度(「思い出」の話ももっとちゃんと整理して書きたい)。
2008年5月20日火曜日
思い出し日記:バンコクの街角、エラワンシュライン
バンコクの中心部は、BTSというスカイトレインが走っていて、これがずっと上を走っている大通りをスクンビット通り(確か西側は名前が変わったと思う)という。バンコクは以前から、朝夕の渋滞が激しく、まさに待望のスカイトレインであった。スカイトレインが開通したのは、僕がはじめてバンコクに来た時よりも前であったから、それ以前のスクンビット通りを僕は知らない。多くの車、バイク、トゥクトゥクで、前になかなか進めず、クラクションけたたましい、そんな光景だったのだろうと思う。しかし、想像するに想像しているそれは、今の光景と大して変わらない。
この大通り、中心部に相応しく、サイアムという商業、業務の中心地を貫通する重要な通りで、周囲の建物はデパート、ホテルや銀行が立ち並んでいる。上部に高架がある感じからして、今の東京の六本木っぽい雰囲気とも言えるが、位置づけ的には銀座や丸の内という感じか。
このスクンビット通り沿い、2本のBTSがクロスする大きな交差点がある。それが、この写真。エラワンシュラインという、仏教の祈祷スペースというかオープンエアの寺(お坊さんがいないところを見ると、仏教モニュメント的体裁)である。
大きく街区の隅を切られた交差点の向かいに視線を向けると、僕らのよく知るルイヴィトンがデパートの角に鎮座している。ここは商業の中心地であり、と同時に宗教モニュメントも存在しているのだ。エラワンシュラインのあるこちら側は、人々が集う祈りの空間(ルイヴィトンも資本主義に祈りを捧げている人々が集まっていると思うが)になっている。そして、線香の煙はビルの照明を霞ませ、高架鉄道は上空を疾走する景色が展開している。
元来、東京と共通のアジア的な何かを内在させた都市として、僕はバンコクを意識している。違うことは知っている。でも、何か東京の延長上で出かけていける街なのだ。今回も、暑いは暑いけれど、東京で何か新しい発見をするようにバンコクを歩いていた僕はいきなりガツンとパンチをもらうことになった。
バンコクにパンチ食らった僕は線香の煙と、熱帯の熱の中に佇む。人々は花輪を祭壇にかけて、祈る。後方では、木琴と銅鑼、鐘が鳴り、歌と踊りが披露される。そこでも祈る人、それを裁く人、踊り、奏でる人。祈り終わった人、これから祈る人。祈る人に何かを売ろうとする人。僕と同じでそれを眺めているだけの人。
ヴィトンのウィンドウのガラスパタンのモアレに目が眩むより先に、線香の煙が、涙目の都市景観を僕に拝ませ、背中を汗が滴り落ちる。
2008年5月19日月曜日
2008年3月31日月曜日
年度末
ここ2年間、研究室でお世話になっていた自治体の担当の方々が、みな異動となり、担当課を離れられることになった。課長、主任、担当の方とみな、個性が強くて、バランスもとれていて、若輩者の生意気な感想だけれど、非常にいいチームだった。まるで、映画のキャストのようなチームだった。あの方々の並々ならない努力で仕事がまわっていると強く感じた。
行政は数年で部署の異動をしなくてはならない。このことの弊害や恩恵について、今ここで述べることはしないけれど、担当の方の「まだ遣り残したことがたくさんある」という言葉の残念そうなことと言ったらない。ここでいろいろ関わらせていただいた僕らはまだ今もここにいる。彼らの仕事をつなぐこと、前任者から新任者につなぐこと、これはまったく僕らの仕事ではないが、今もここで、その都市と向き合っている僕らがいて、その都市は今日もそこにあり、そこで生活している人たちもいる以上、何も終わっていないのだと思う。その部署の面々は変わっていくが、また次の仕事もあるわけで。
僕らもまだまだ終われることのない、現場を見つめているのだと思う。
短い2年間ですが、お疲れ様でした。
2008年3月10日月曜日
焼野原と塔
東京を西側から半時計回りに渋谷、蒲田、品川、芝といったルートで電車を乗り継いで雨の切れ間を縫っていた。
ちなみに今日は東京大空襲から63年。
63年前の今日、日付がちょうど変わった頃、325機のB-29爆撃機の爆撃によって、死亡・行方不明者10万人、市街地3分の1にあたる41万k㎡を焼失した。今の東京に戦災の面影など表立っては全く見えない。景観はこの半世紀で大きく変わり、復興というプロセスがあったことすら、感じ難いかもしれない。今日はそんな都会をぐるぐる巡ってはぼーっと、物思いにふけっていた。
電車を乗り継ぎ、芝に着くと江戸から続く増上寺がその門構えぐるりと巡った高い塀、塀の向こうには広大な敷地にたたえた緑で威容を放っている。そして、背後には赤くそびえる東京タワーとMの字輝く愛宕ヒルズ。戦後東京はマンハッタニズムよろしく、空をもとめて垂直に延びている。横に広がる増上寺と縦にのびる近代建築。東京湾側からの眺めは地形も手伝って、なんとも鮮烈なコントラストが効いている。
ちなみに、この高層化への上昇指向は近代以降のものではないらしい。昨日なにげなく見ていたのでうろ覚えだが、TBSの世界遺産が新羅時代の史跡、慶州歴史地域を取り上げていた。当時朝鮮半島は三国が三つどもえの乱世の最中で、初の女王善徳はこの災厄から国を救うべく寺を建立し、そのガランの中央に九重塔を建てる。この九には強い吉兆を願う意味が込められており、建てられた塔は高さ80mに達し、当時世界中で類を見ない当時の「超高層」の木造建造物であったという。
63年前に東京はアメリカ軍の爆撃で市街地は一面火の海となり、灰塵に帰した東京が目覚ましい復興を遂げたことはもう既に述べた。今、僕の眼に映る風景は、新羅の女王善徳が災厄から国を救おうとした、九重の塔だろうか。当時の戦災を生き抜いた人々の復興への足跡を辿っている自分は、彼らが見ることのなかった今の都市風景に何を思い、何を語れるだろうか?
2008年3月5日水曜日
ストリートに咲く笑いの花
道すがら通りがかった児童館の前で子供らが鬼ごっこをしていたのだった。彼らは口々に小島よしおや藤崎マーケットのギャグを叫びながら駆け回る。ああ、ここにこそお笑いブームを実感として垣間見ることができるなと思った。確かにようつべやニコ動の閲覧数や、コメント数からも見える部分はあるし、ネット発の若手発掘が今や重要かつ旬な仕掛けとなっているのもわかる。ブームの仕掛けと広がりにネットがあったとしても、リアクションのボトムにはいつもストリートがある。街角に咲く「おっぱっぴー」になんかブームの持つ力を感じるのだった。
2008年2月26日火曜日
自分の声・自分の作法
マイクを通していろいろな音が録れて、デジタルデータ化される。
携帯して録音しているので、そこに録られた音は少なくとも自分も一度聞いているはずの音なのだが、やっぱり意識して聞いていない音がたくさんあって、発見がある。今プレイバックしているのは、先週の“S”の打ち合わせ。食事しながらの打ち合わせで店にかかっているBGMが打ち合わせ時にはまったく聞こえていなかったことがわかる。BGMが意識の向こうにあったということがよくわかる。
そして、自分の声。話し声。
何度となく聞いているが、改めて思ったよりも声が基本低いなぁと思うところがあるのと、抑揚がついてしゃべっている時には逆に思ったよりも高い音域までしゃべっているのがわかる。普段話しをしているときも自分の声を聞きながら話をしていて、自分の口調を意識しているとは思う。そこで自分の話したい話し方を、選び取ってコントロールして話をしていると思う。だが、発音された向こう側でそのフレージングがどう響いているか、どう聞こえているかというのは、内発された意識、自分の耳が聞いているものとは別なものだなぁと思う。
継続してしばらくこの機材で面白がって録音しまくるだろうと思う。
2008年2月24日日曜日
ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』
久し振りに、しっかりと小説を読んだ。
ある一人のインド系アメリカ移民の子が一風変わった名前を名づけられる。そんな家族の話。それ以上のことは何も起こらない。にも関わらず、描写のひとつひとつにとても感じ入るものが溢れていて、最後まで惹きつけて止まない。とてもいい小説だった。
時間が多くの人のそれぞれに共感されたり、されなかったりする中で、この小説は時間を積み上げるように淡々と描写している。人物を描写しつづけるということは、一方でこの時間を描写しつづけるということでもある。そして、これがなんとも鮮烈で、胸を焦がして夢中になって頁を繰った。
ふとこれまでの自分のわずかな人生の時間を積み上げられたものとして眺めてみる。何かが起こったようで、実際のところ何かが起きていただろうか?過去を眺めていても、見えるのは淡々とした世界とそれに透かして見える自分の周辺のことだけで、何か気づくにはまだまだ多くの時間を要するのかもしれない。
2008年2月19日火曜日
同窓会賞
学部、修士課程と在籍していた大学の都市計画専攻同窓会主催の優秀卒業論文賞選考会に出席してきた。
本選考会、実際の卒論発表会時に先生方によって、採点され選ばれた数本の論文を同窓会選考会で再度発表してもらい、学術的に優秀と認められたものからさらに同窓会として、優秀だというものを一本選ぶというもの。
今年度より学部生の部だけでなく、修士の部もあり、内容的に充実したものだった。
このような大学の専攻同窓会が論文コンペをするというのは、他に例があまりないらしく、縦のつながりを大事にしようという学科全体の流れによるもの。かく言う自分も数年前にこの選考会にノミネートされ、いろいろな質疑の中で先輩たちのコメントから多くののことを学んだというか感じたものだった。それは社会人目線であり、先輩目線であり、学生時代に感じていたものとその後の社会で感じていることのミーティングポイントとして機能している。
発表する学生の姿や、懐かしい先生方のコメントから、自分のいた学科の校風のようなものをしっかり見せつけられ、確かに自分もここで習ったのだなぁと実感。うちの学科はプレゼンに力が入った学科で、いかに自分が訴えたい問題がそこにあるかということ、それを自分の提案でいかに解決するかというところに力点が置かれていたのだったと改めて実感。それは今でも重要なスタンスだと思っている。自分も初心忘れず頑張ろう。
終ってからの懇親会では、当時僕が設計課題でTAをしていた学生たちが大学院に進学していたりと懐かしいことこのうえない。
2008年1月15日火曜日
中央フリーウェイ
昭和37(1957)年国土開発縦貫自動車道建設法にて、中央自動車道の策定がはじめて言われる
昭和42(1967)年12月15日調布IC〜八王子IC供用開始
(途中略)八王子以西では、徐々に供用開始
昭和51(1976)年5月18日:高井戸IC〜調布IC供用開始、首都高と接続
昭和51(1976)年9月~10月荒井由実「中央フリーウェイ」含むアルバム、「14番目の月」レコーディング
昭和51(1976)年11月20日荒井由実「中央フリーウェイ」含むアルバム、「14番目の月」リリース
昭和57(1982)年11月10日中央自動車道全線開通
注目は調布IC以西が先に開通して、起点の高井戸IC~調布ICの開通が遅れた点と、その区間が首都高に接続した年にちょうど都心から出かけるようにして、ユーミンが中央フリーウェイをリリースした点。
しかも、中央フリーウェイの歌詞にでてくる、中央自動車道沿いの風景の多くは、調布ICの先、府中近辺までで、さらにそれよりも西の八王子近辺は出てこない。「中央フリーウェイ」は中央自動車道と首都高速の接続記念的ソングとも言える。時代はモータリゼーションによる手軽な郊外レジャーの活発化した時期であった。この高速道路開通期につくられたこの歌は、単なる流行のドライブソングというだけではなく、いつでも簡単に都心を脱出して味わえるサバーバン賛歌でもある。
2008年1月10日木曜日
zasshi!!! zasshi!!!! zashi!!!!
こんな日本のフリーペーパーの媒体にも応答しているという事実に。手にとって、中を見てみるとネットを通じてインタビューに応じているのがわかる。日本に行く手間(時間や往復の飛行機の燃料が与える環境負荷)を考えて、ネットでやるということになったらしい。トムヨークらしい。
ここで、最近個人的に気になった雑誌をいくつか挙げてみたい。
ひとつめはこのR-25。
フリーペーパーである点と、Yahooのトップページにも似た情報のポータル感。新聞や週刊誌未満の情報量で、かつそれらへ向かうインデックスとしてしっかり機能している気がする。薄さが携帯に便利。都内中心に展開。駅のフリーマガジンラックや、コンビニなどの一部店舗で手に入る。
ふたつめ、ゼクシィ。
最近、身内で読む人がいて(おめでたい)、はじめてその姿をちゃんと確認した。とんでもない厚さ。厚さに加えてその大きさでロンリープラネットを凌ぐボリューム感。結婚という高額商品のカタログともいえる雑誌。専門誌だが、業界誌ではない。一度チェックしたお気に入りには付箋を貼らなくてはとてもじゃないが、もう一度その情報には辿り着けない。あれで、広告収入も考えれば500円なのは高すぎるのではと思うぐらい。
みっつめ、エクス・ポ。
音楽批評家、佐々木敦氏主宰のヘッズが出版した新しい雑誌。16ページフルカラーによる圧縮編集。読みにくさよりも情報が載っているということの価値に重きを置いた雑誌。一般流通しておらず、直接ヘッズに問い合わせるか、取り扱っている数限られた店舗を探すかして購入する。
非常に読みにくいが、読んでみたい情報があるから手に取るという雑誌購買に対する一次欲求に即している気がする。どことなくだが、土つきの野菜を畑に併設された無人の産直売り場で買うような感じ。
よっつめに建築雑誌を挙げようと思うのだけど、もうじき今月号が届くはず。
ついたらまた書きたいと思う。
2008年1月6日日曜日
新年的記述
今年の目標は、
「景感」です。
何も今年のテーマというものでもないのですが、やはり「景」をどう自分が感じるのか?他人がどう感じるか?そこからもう一度自分の対象と自分との距離を考えたいという気持ちです。そして、この「景感」という言葉は、平良氏が手がけたた「造景」という言葉を掲げたからもインスパイアされています。今の僕に「景」を造るということをどれだけ考えれるかはわからないけれど、少なくともそこにある空間を「景」として何か語りたいという気持ちです。
そして、「景」という言葉には刻々と変わる今という時間概念もどうしてもそこにある気もしてなりません。そして、その裏にはさっきまであった「景」という過去があり、これからやってくる「景」としての未来もあるはずで、そこまで感じることができて、造景であったり、修景であったりできるのかなとも思います。ひとまず、今年はしっかりと自分の対象としての空間を「景」としてどう感じて、自分との距離をしっかり見極めたいと思います。方法はさまざまあると思うのでまた試行錯誤したいと思います。